正義と正義の対立、美辞麗句を商売のツールとする偽善者

 世の中、絶対的正論で、正義に満ちた美辞麗句は山ほどある。正義を口にするだけで、誰もが反論できない。

 「融和」と「平和」。まさに好例。「融和」や「平和」に「No」というだけで悪人扱いされるのはほぼ間違いない。けれど、「融和」と「平和」が共存できないとき、取捨選択しなければならない。

 たとえば、AさんとBさん、あるいはCグループとDグループがどうしても互いに意見や利害関係が対立し、融和どころか、対立が激化し闘争にまで発展しそうな勢いである。そのときは無理して融和させるよりも、棲み分けしてもらったほうがいいだろう。「融和」は諦めるが、少なくとも「平和」だけでも実現する。そこに妥協の価値を見出す。

 結婚はめでたい。結婚式では誰もが夫婦円満・融和を祈り、祝福する。しかし、残念ながら、蓋を開けてみるとどうしても融和の実現ができないことが明白になった。2人が毎日喧嘩ばかりしていて誰もが幸せになれない。そのときはむしろ、無理して融和を求めるよりも、離婚(棲み分け)して平和の実現を目指したほうが現実的だ。その時の離婚はむしろ結婚同様にめでたいのである。

 「自由」と「平等」。これも対立する側面をもっている。資本主義社会では、自由がたくさん保障されているが、見方によっては不平等もたくさんある。一方、社会主義制度下では、特権階級を除く一般市民は貧しいという意味で平等であるものの、自由は剥奪されている。いや、正確に言うと、みんな自由がないところでは平等である。そうした見方からすれば、「自由」と「平等」の同時実現はどんな社会制度においても困難だ。

 二兎追えないのが世の常だ。

 世の中、美辞麗句が溢れている。二兎三兎、何兎も追い、美辞麗句オンパレードの商売も立派に成り立っている。正義は反論できないけれど、正義と正義が対立し、共存できないところ、じゃどうするかと軽く一押しすれば、偽善の論理が一気に崩れる。

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