朝青龍の退職金1億2千万円は適正相場か?

 先月、春節休暇で私が1週間日本に滞在して、テレビを眺めていると、馬鹿馬鹿しい番組がやっていた。朝青龍の退職金が1億2千万円か1億5千万円か、それだけで延々と1時間、議論している。何も考えずに、眺めていると、ふと私が気が付いた。この1時間、いったい何だったのだろう。何かしらの知識や収穫は得たのだろうか。

 題材がくだらないとか低俗とか、そういう問題ではない。どんな題材でも、見る角度と突っ込み方が大事だ。「1億単位の退職金を、これだけ『品格のない』力士に出していいのだろうか」、この番組がいわんばかりだ。朝青龍の品格の悪さを立証するために、様々な証拠も用意された。

 「朝青龍は昔からメディアの取材に対しても、横暴な態度を取ってきた。記者に『ぶっ殺すぞ、コラ!』と口癖のように言っていた」。これは、これは、朝青龍は悪だな。しかし、昔、これだけ「悪」だった朝青龍の素顔を、この記者はなぜ報じなかったのか、その当時に。国民的英雄扱いだった時代に、実は朝青龍はとんでもない人だよと報道するのがメディアではないか。

 今日になって、朝青龍は踏んだり蹴ったり、これだけ品格のない力士に、1億単位の退職金なんて、庶民にとって夢のまた夢になるような金額を支給するなど、とても考えられない。ごく自然に考えるだろう。

 しかし、そう考えている日本人よ、あなたが朝青龍になることはできるのか。朝青龍は、誰にも取って代わられることはない。価値の稀有性、過去の功績に対して、1億の退職金が高いか安いかは一目瞭然だ。価値と功績という過去の歴史に対する評価である。

 どんな国民的英雄でも生身の人間である。「英雄」と「悪魔」の両極端扱いでは、メディアとして失格だ。しかし、ここだ。ただ、メディアを批判するのもいかがなものか。視聴者のニーズがあってこそのメディアではないか。

 根源を突き詰めると、一人ひとりの日本人の思考力と価値観にあると思う。大衆メディアに流されずに、自分でものを考え、判断する主体性をもってほしい。たまには難しい本でも読んだり、いろいろな現象を違う目線で見つめたりすると、きっと明日は違ってくる。

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