氷水かぶりはなぜ馬鹿げている、チャリティーの受動化と低俗化

 氷水かぶり。全盛期だが、賛同できない。馬鹿げている。いくら目的がチャリティーで素晴らしくても、手段はまったく馬鹿げている。――氷水を被るか、100ドルの寄付をするかという選択には閉口だ。チャリティーはあくまでも自主的、能動的なものであって、せいぜい緩いきっかけを与える程度にとどまるものであるが、氷水かぶりはチャリティー活動の受動化、低俗化だ。

 現在、世界の約7億人が、水不足の状況で生活している。不衛生な水しか得られないために毎日4900人(年間約180万人)の子どもたちが亡くなっている。一つの「善」のために、一つの「悪」をなすことの社会的意義はどこにあるのだろうか。水資源の浪費だけではない。氷、製冷の電気代だって立派な浪費ではないか。

 チャリティーというのは、一人ひとりの倫理道徳、世界観、価値観に基づく自発的行為である。世の中寄付に値するものが数えきれないほど存在するが、人は独自の判断で特定の対象者を選定する権利を有する。特定目的の寄付への勧誘行為にしても、押しつけがましさを感じないだろうか。「寄付」という究極の道徳上の価値基準で拒否を許さないムードを醸成するやり方は、私としては、好きではない。いや、いささか反感を覚えずにいられない。さらに、このイベントの一過性が後日のチャリティー活動全般への悪影響も憂慮せずにいられない。

 寄付というだけに、なかなか「NO」といえないのが、このキャンペーンの設計コンセプトだろうが、私は「NO」です。

<続編加筆>

 少数派ではあろうが、私は、「アイス・バケツ・チャレンジ」に強く反対する。

 香港のソウス・チャイナ・モーニング・ポストも今日、記事を掲載した――。医師からの警告。氷水をかぶることは、健康にリスクが伴い、場合によって深刻な結果につながる恐れもあると。

 心血管など循環系統の病気や頚椎の病気の患者にとって、氷水が大敵だ。殊に本人が自分の病気に気付かない場合などのリスクもあるだろうし、問題が発生した場合、誰が責任を取るのか、本人かそれとも、指名した人?

 毎日、貴重な水資源が大量に浪費されていることを見ると、心が痛む。一部、氷水かぶるどころか、氷水入浴にまで発展している。チャリティー活動がすでに、イベント化、低俗化していることは、前述した通りだ。

 寄付は黙ってするものだ。ショーではない。