私はこうして会社を辞めました(5)―めでたく就職

<前回>
(敬称略)

 古北開発プロジェクトは、いざ始動に差し掛かると、バブル崩壊の兆しがあったのか、金融機関が尻込みする形で、資金ショートが発生し、不発に終わった。後ほど、別の資金調達ルートで再開され、いまの古北の繁栄を築き上げられたが、一番乗りで取り掛かった日系中小不動産のH社は、果実を享受することはなかった。古北プロジェクトに先見の明を持つ黒田社長は、大きな夢とロマンの持ち主で、いまでも、私が大変尊敬している人なのである。

 もし、順調にH社がこのプロジェクトに乗ることができたら、私も、いま古北の一角にあるビルの何階分のオーナーになっていたかもしれない、なんて夢のような話だった。

 泣き面に蜂、悪いことは立て続けにあった。アルバイトに精を出しすぎた私に、再び、ツケが回ってきた。単位が足りない。二度目の留年が決定。

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 今回は、内定先のトステムからは、さすがに奨学金の話がなくなったが、逆に、私がトステムに借金を持ったため、もう一年、いやでも、会社が待ってくれなければならなくなった。といっても、いやな顔をされることはなかった。バブルの末期とはいえ、人手不足は解消されておらず、新卒の大量採用も続いた。

 一年後、いよいよ、トステムへの入社が現実になった。が、またまたのアクシデント、卒業に向けて最終点検をすると、何と1単位が足りていない!何回計算しても、1単位が足りないのであった。青天の霹靂!

 これ以上、会社に迷惑をかけるわけにはいかない。一旦、内定を辞退し、奨学金も分割して返しながら1年頑張るしかないと腹をくくったとき、グッドニュースが舞い込んだ。レポート提出だけで、1学期で単位の取れる科目があることが分かった。そのまま就職してもよいと学校と会社両方から青信号が出た。

 「万歳!」、誰も胴上げやってくれないが、めでたく、社会人の仲間入りを果たした私は、何よりも嬉しい。

 当時のトステムは、香港とタイに工場があった。海外バッググランドを生かしたい私は、香港勤務を志願した。会社にも快諾されたが、まず日本国内で修業を積むことで、本社設計部の配属となった。担当業務は、ビルのカーデンウォールの設計だった。

 トステムの本社は、江東区にあり、とてもモダンで綺麗なビルだった。錦糸町駅から本社までは、徒歩15分の道のりだが、途中の川沿いに桜の並木通りがある。入社を祝ってくれたかのように、桜が満開。私にとって、東京の空がこんなに青く、高く見えたことは、いままでなかった。

 入社後は、新人研修が半年ほどあった。あっちこっちの営業所や工場に回されるが、勉強しながら、あっという間に時間が過ぎた。

<次回>