私はこうして会社を辞めました(11)―中国駐在決定

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(敬称略)

 1994年初頭、ロイター通信社の日本法人ロイター・ジャパンへの入社が決まった。そこで数ヶ月の研修を受けてから、中国へ赴任することになる。

 いまは、中国ブームで、中国は駐在員にも現地就職組にも人気が高い。しかし、94年当時、中国はまだ下火で、ロイター中国も日本人の現地採用ができずに、日本法人のロイター・ジャパン経由の駐在員採用しか道がなかった。ロイター・ジャパンの日本人社員は、欧米志望が多く、ロンドンやニューヨークなどが人気駐在先になっているが、アジア地域になると、せいぜい香港やシンガポール止まりだ。中国駐在となると、誰もが手を上げないようだった。

 海外駐在員手帳があって、「中国」は、アフリカの国々と一緒に、もっともランクの低いカテゴリーに分類されていた。ランクが低ければ低いほど、駐在員の待遇が良く、私が29歳の若さで1000万円超の年俸をもらえるわけだ。

 私と同期で採用された中国駐在要員で、もう一人、池山順子(仮名)という女性がいた。彼女は北京駐在で華北地域、私は上海駐在で華中・華南地域をそれぞれ担当する。後日彼女から聞いた話だが、面接時に会社から「北京と上海、どちらの駐在を希望するか」と聞かれると、彼女は迷わずに「どこにでもいく」と答えたそうだ。一方、同じことを聞かれた私はしっかりと上海希望を伝えた。それで、彼女は北京、私は上海に決まった。北京へは私が行きたくなかった。当時の北京は、相当生活が大変だったらしい。

 池山は年齢が私より三つ上、大手米系飲料メーカーの企画部出身で、バリバリのキャリアウーマン。英語はペラペラ、台湾留学で磨き上げた中国語もかなり洗練されている。

 私と池山の二人は、中国で日本企業市場を開拓する任務を与えられた。ほぼゼロ状態と言っていいほどの市場だった。ロイター通信社といえば、ジャーナリストやニュースというイメージだが、実は金融情報サービスがロイターの大きな収益になっていることは、意外に余り知られていないのだ。私と池山は、ロイターの金融情報サービスを邦銀や日本の証券会社、商社などに売り込むだけでなく、カスタマーサービスを含むすべての管理業務を担当する仕事だった。

 金融情報サービスとは、為替相場や株式債券相場、先物相場などの金融情報を衛星経由で顧客サイトに設置されている専用端末に落とし込み、リアルタイムで提供するものだ。金融機関のディーリングルームが主な顧客で、一部商社の先物取引部門やメディアも契約している。特に、インターネットが普及していなかった当時では、ロイター端末の画面は、いかにも近未来的でハイテクに見えた。

 1994年3月、三年間お世話になったトステムに別れを告げるときが来た。トステムにいた三年は、私が高層ビルのカーテンウォールの設計に携わった。コンマ1ミリとも狂わない世界だった。この世界は、いまでも、コンサルタントとしての私の中に生きている。

 成田空港第2ターミナルを利用する度に、私は、必ずあの大きな窓を見上げる。そこ、そこ、そこのジョイントの部分は、私が設計したのだ。何十年経っても頑丈で、世界の旅人に愛用される成田空港は、私の誇り、日本の職人の誇りだ。ものづくりは、日本の原点、そして世界に誇る日本の製造業は、私の心の原点。

 「Made in Japan」は不滅である。

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