私はこうして会社を辞めました(12)―香港アプローチ

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(敬称略)

 1994年4月、桜満開のとき、私は人生二度目の就職を果たした。

 東京港区・神谷町。城山ヒルズの隣のビルに、ロイター・ジャパンがあった。社員500名規模の会社、外国人が1割ほどを占め、日本語と英語が社内公用語。トステムのようなラジオ体操はない。朝礼もない。社内会議も遠慮なく主張のぶつけ合い・・・

 もっとも戸惑いを感じるのは、新人に誰も教えてくれないことだ。トステムなら、先輩や上司が親切に手取り足取り指導してくれたが、ロイターは自分から聞かない限り、誰も教えてくれない。私と池山の二人中国駐在員のために、基礎的商品知識を勉強するプログラムは一応組まれていたものの、指導に当たるスタッフのところに行くと、「何か質問あったら、聞いてください」。えっ?教えてくれないの? 私は、金融知識がまったくなかった。豊富なロイター金融情報を眺めながら、唯一分かるのが為替レートくらいだった。「あの~、証券市場と債券市場のベンチマークの違いって・・・」と切り出すと、「駅の地下街に本屋があります。そこで金融基本知識の本がたくさん売っています。良さそうなのを一冊買って読んでください」と迷惑がられた。

 冷たい、こんな冷たい日本人って初めて。外資企業を実感する一瞬だった。

 その日の帰宅途中、私は、為替、株式、債券、商品先物、国際金融市場、インターバンク関連の入門書をカバンに入るだけ一杯買い込んだ。そして、本と格闘する一週間。

 週明けのロイター端末は、私の目に今かつてなくカラフルに映った。どんどん更新されるデータはまるで生きているようだ。一つ一つのデータが、金融のプロであるディーラーにとっての意味合いが分かってきたのだ。私は、興奮した。

 端末のデモンストレーション(顧客対面の実演)に合格するのが、駐在地赴任の最終的条件であった。一か月後、私と池山が試験に合格した。

 その直後に、ロイター中国から連絡が入った。「試験合格した以上、東京研修を1か月繰り上げて終了とし、直ちに赴任せよ」。そして、私の手に香港経由上海行きの片道航空券が渡された。ビジネスクラスの航空券だった。

 6月中旬、私が成田空港を飛び立った。

 「立花様、本日のお食事は、オーストラリア産の牛肉を使ったステーキ、お魚の方はスズキのキノコソース、あとは和食お好みであれば懐石風の松花堂弁当もご用意できます。ご飯は国産米を使っております。いかが致しましょうか?」

 ビジネスクラスの機内サービスは、素晴らしい。「あのう、シャンパンはありませんか」、私は王様気分になってきた。

 上品で長身のグラスに、きりりと冷えたシャンパンが優雅に流れ込むと、うっすらと曇ったグラス越しに、きめ細かい気泡が華麗な踊りを見せながら、立ち上っていく。全身が極度の幸福に包まれる瞬間だった。

 香港の街のネオンが翼の下に見えてきた頃、私はすでにほろ酔い気分になっていた。私は、香港着陸時に、ほろ酔い気分で「香港アプローチ」を楽しむのが大好きだった。

 「香港アプローチ」とは、旧啓徳国際空港の滑走路13へのランディング・アプローチ(着陸進入)の際大きく機体を傾けつつ九龍仔公園上空近辺で機体を右旋回させ、ビル群すれすれの高さを飛行して、スリル満点の着陸コースだった。飛行機の乗客とビルの住人と目が合うという冗談もあるが、さすが目が合うことはないが、パタパタ団扇で扇ぎながらテレビ鑑賞する住人を確認できるほどの距離だった。新空港に移転してから、この楽しみがなくなった。

21804旧香港啓徳空港へ「香港アプローチ」中の旧ロゴ塗装のキャセイ機

 香港アプローチで啓徳空港に着陸するときは、着陸進入の直前にILS(計器着陸装置)を解除し、ビルの屋上に取り付けられたチェッカーボードを頼りに飛行ルートを確認するしかない、パイロット泣かせの難コースとして有名だった。この滑走路13へのファイナル・アプローチ(最終進入体制)で、パイロットの腕が問われ、しかも、パイロットによって持ち味の違うアプローチを楽しめるのだ。啓徳空港の着陸経験が豊かなパイロットはギリギリまで直進し、大きな旋回角度で一気に変針するが、逆に初心者パイロットは小刻みに変針してタッチダウンしていく。私はその大旋回のダイナミックなランディングが大好きだった。

 その日は、キャセイパシフィック航空のベテラン・パイロットが思い切って大旋回で一気に角度変針し、気が付いたら、窓の外に香港島側の高層ビルとネオンが目の前に輝いていた。

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