私はこうして会社を辞めました(26)―相手の名前を言え!

<前回>
(敬称略)

 もう一種類の「掃黄」は、「プライベート・スペース」、私的場所での摘発だ。ほとんどの場合は、ホテルの客室に公安が突入しての「現行犯逮捕」である。当然、対象はあくまでも売春・買春行為だった。恋人同士だったら対象外になる。そこで、売春・買春行為を立証させるために、男女二人を別室に隔離し別々に尋問するらしい。相手の名前から、いつどこで知り合ったか、付き合いの経緯などを根掘り葉掘り聞くわけだ。恋人同士でもなければ、二人の回答が必ずどこか食い違いが出る。すると、「有罪」とされる。はっきり言ってこれが本当だとすれば、かなり無茶なやり方だ。

 恋人でなければ、即ち「売春」「買春」と決め付けるのが、法律上の「無罪推定の原則」に反する。たとえ、恋人でなくとも、一夜限りの行為は違法かというと、いくら中国法でもこれは違法にあたらない。「売春」「買春」は、「性的行為」以外に「金銭の授受」、つまり「性的行為に対する給付がなされている」ことを要件としなければならない。

 まず、「性的行為」の立証だ。物的証拠として、使用済みの避妊用具(正確に言うと付着物のDNA鑑定が必須)が挙げられるが、それを現場で押収できない場合、「性的行為」の立証が難しくなる。次、「金銭の授受」だが、これはもっと難しいだろう。取引の口頭契約が証拠を残さないのだ。お金の札にも「これは、売春代金である」と明記されていない。

 要は、この辺の罪状は「合理的な疑い」で成立させられるのだ。これは、中国だけでなく、日本の警察や検察でもやっていることだ。98年7月に和歌山市で起きた毒物カレー事件で、殺人罪などに問われた林真須美被告に、最高裁はさる4月21日、上告を棄却し、有罪判決を言い渡した。その判決文に、「合理的な疑いを差しはさむ余地のない程度に証明されている」と有罪とする根拠を示した。カレーの鍋を見張っていて、毒物投入行為が可能な人物は林被告だった。しかも、林被告の自宅にも犯行現場で見つかった毒と同種のものが押収された。だから林被告は犯人だという推論は、確かに疑う余地がない。

 しかし、「無罪推定の原則」は、あくまでも「有罪の証拠」を求めるものである。「犯行を疑う余地がない」だけで有罪判決してもよいか。もう少し分かりやすく言えば、たとえば99%の確率で林被告が犯人だと認識した場合でも、依然として1%無罪の確率が残っている。この1%は、決して存在しえないと裁判所が断言できるのだろうか?「無罪推定の原則」が動揺すれば、証拠不十分状況下での有罪認定のために道が開かれる。この道の先に、警察や検察の手抜きにつながり、「冤罪」の可能性も出てくる。だから、端的にいうと、一人の犯人を見逃してでも、今後のため、決して冤罪を出さないという社会全体利益優先の判断は、裁判所にできるのか。アジアの小市民社会ではなかなかできない。社会の全体利益よりも、目先の悪の「個」への懲罰を先行させる文化風土があった。アメリカのO.J.シンプソン事案が「無罪推定の原則」に則った判例の代表格で、誰から見ても犯人だが、刑法上の無罪判決が下された。そういう意味で、アメリカの司法は偉大である。

 ある夜、私は顧客先担当者の若い中国人女性二人と会食し、少しお酒も飲み、深夜12時を回ったところ彼女たちをタクシーで自宅に送る途中、いきなり警察に車を止められ、三人別々に降ろされ、相手の名前や関係など一一尋問された。通行人の職務尋問は警察の権限だが、主旨は何かと私が警察に聞いたら「掃黄キャンペーン」と答える。私は絶句した。もし、あの日、相手の名前を言えなかったら、それで私たちに買春・売春容疑がかかるのかと考えただけで鳥肌が立つ。

 いずれにしても、中国では、売春・買春行為はとても「無罪推定の原則」の適用を期待できそうもない。90年代当時も、遊び好きな日本人駐在員の間で、リアルタイム更新の「掃黄情報」が重宝されていた。

<次回>