私はこうして会社を辞めました(35)―板門店の小屋を目指せ

<前回>
(敬称略)

22697上海オークラ花園飯店、ロイター日本語サービス発表パーティーで    スタッフ記念撮影

 1997年は、忙しい一年だった。中国では、ロイターが初の日本語情報サービス「ロイターファースト」を発売した。株式、指数、債券、為替等金融情報中心だが、インターネットが普及されていない当時、リアルタイムの日本語ニュースが何といっても目新しい。邦銀等金融機関以外に、マスメディアや商社の契約数も順調に伸びた。顧客サービス面では、3年間の試行錯誤を経て、中国国内の日系企業担当チームが形を整え始め、顧客クレーム率も下がった。

 平和と繁栄到来の中、私は大好きな旅に時間を掛ける余裕ができた。

 97年の秋にスペイン旅行を私が妻に約束したが、直前になって大きな変更が生じた。ドタキャンになったのは、北朝鮮旅行に変更されたからだった。私の仕業だった。

 私は、大の韓国ファンである。韓国へは十回以上も旅行している。95年に私と妻が韓国旅行に行ったとき、板門店ツアーに参加した。当時外国人のみツアーへの参加が認められ、物々しい雰囲気が漂っていた。Tシャツやジーンズ、ミニスカート、サンダルなどラフな服装は着用禁止とまで言われた。どうやら、38度線国境地帯では、北朝鮮軍人が南からやってきたカジュアル服装姿の観光客を写真に収め、韓国はアメリカの退廃文化に染まっていると民衆に宣伝するらしい。

 北に向けてバスが走ること2時間弱、車窓に、南北の国境を流れるイムジン河が見えたとき、車内にあの「イムジン河」が流れる。この曲は在日朝鮮人の間で1960年代に歌われていたもので、松山猛が作詞、当時のフォークソンググループ「ザ・フォーク・クルセダーズ」が歌ったものだった。

 イムジン河水清く、とうとうと流る。水鳥自由に、むらがり飛びかうよ。
 我が祖国南の地、思いははるか。イムジン河水清く、とうとうと流る。
 北の大地から、南の空へ。飛びゆく鳥よ、自由の使者よ・・・

22697_3板門店国境 【上】:韓国側から北朝鮮側を見る(95年)【下】:北朝鮮側から韓国側を見る(97年) 共に筆者撮影

 観光のクライマックスは、板門店国境のプレハブ小屋だった。国境地帯に入る前に、ある文書に署名させられる。たとえ北朝鮮側の兵士に銃撃され負傷や死亡しても韓国側の責任を問わないという誓約書だった。緊張が一気に高まる。

 国境のプレハブ小屋には、簡単な会議用設備が設けられ、南北会談に使われるのだ。テーブルの真ん中に旗が置かれている。旗の位置は国境だが、小屋の中に限って、自由に行き来でき、北側の空間に入っても良いということだった。小屋に入って、国境付近の見学をしていると、向こうでは北側の軍人が双眼鏡でこちらを観察しているのが分かる。どきどきする。

 ガイドが説明する、「板門店には、北朝鮮側からも見学者が来ます。この小屋は、南から観光客が入るときは韓国兵士が中を警備し、北から観光客が入るときは、北朝鮮兵が警備に当たります」

 そこで私が口を挟む、「すみません、私たちも、今度北側のツアーに参加してここに来ることができるのでしょうか?」

 一瞬、空気が凍りついた。

22697_4板門店国境線上の小屋 【上】:韓国側から訪問時(95年) 【下】:北朝鮮側から訪問時(97年) 共に筆者撮影

 「ご冗談だとは思いますが、北には私も行ったことがありませんし、身の安全の保証はできませんよ・・・」、ガイドさんが微笑みながら答えた。

 でも、私は、北側から、この小屋をいつか訪れたいと決心した。

 97年夏、私が北京出張中に某ホテルロビーの一角に、「朝鮮国際旅行社」の看板を発見した。思わず中に吸い込まれたかのように入ってみると、日本語を話す朝鮮人担当者が親切に応対してくれた。「日本人も、ちゃんと北朝鮮には行けますよ。ただし、あなたはマスメディア勤務ですね、取材はダメですよ」。「いや、私はジャーナリストではありません。一般職員です」、私が説明する。「なら、大丈夫ですよ。手付金を払ってください。日程表をすぐに送りますから」。私はすぐに妻と二人分の代金を支払った。

<次回>