私はこうして会社を辞めました(48)―「十か条」の暗雲

<前回>
(敬称略)

 1週間後、私は、古田部長に呼ばれた。「なぜ、このような文書を、上司の私を飛び越えて社長に出したか?」、冒頭一番の質問だった。

 「はい、理由は四つあります。その一、社員就業規則では社長直訴行為が禁止されていません。その二、上司が本件の当事者でもありますし、また、事情の性質では会社の最高経営責任者への報告が妥当だと私が判断しました。その三、私が会社を辞する決心が固まっていました。その四、私はロジャー・バックレー社長とも田辺本部長とも中国勤務時代からの付き合いで、厚い信頼があり、個人レベルの相談としてでも乗ってもらいたかった。このような報告スタイルが規則違反であれば、私は、処分、処罰を受けても異存ありません」と、私は答えた。事実上上司への宣戦布告である。

 古田部長との関係を挽回できるかどうかは、彼の出方にかかっていた。しかし、あの会談では、「心得十か条」の製作指示者が依然として明かされないまま、「表現上の不適があって、誤解を招いたことについて遺憾だ」という外交辞令にとどまった。

 会社側にしてみれば、「十か条」は著しく経営管理の常識を逸脱するもので、理論上あってはならないものだ。しかし、現にNP部内では「十か条」はもはや暗黙のルールだ。逆に私がそれを無視し(あるいは無知)、NP部内の非常識の持ち主になってしまった以上、部内の秩序を乱すことが危惧され、成文化された「十か条」を警告として手渡されたものと推測される。

 私がなぜこの「十か条」で大きなショックを受け、結果的に会社を辞めることになったかは、あとで述べることにする。それよりも、先輩の風見から手渡された問題の「十か条」は、果たして、風見が彼自身の意思で作ったのか?それとも、古田部長の指示(明示或いは暗示)に従って作ったのか?ということに焦点を当てたい。その謎は、9年後にようやく解明されようとした。

 2009年3月、ロイター香港時代の部下木津英隆が上海に来訪した。彼は、すでにロイターを離れた風間から以下の主旨のメッセージを預かってきたという。

 「私は、ずっと、立花さんにとても申し訳ないことをしたと思っています。実は、当時、NP部の古田部長の暗黙な意思表示を受けて、あるいは、NP部の「古田王国的」な雰囲気の元でとも言うべきか、あの紙(「十か条」)を作って立花さんに渡したのでした。立花さんから私が憎まれていることもよく知っていました。あれ以来、8年以上も経ちました。どうにか、メッセンジャーの木津さんを通じて、お互いの関係を雪解けにできませんか?・・・」

 もちろん、私は、喜んでその要望を受け入れた。しかし、私がその件をブログ(詳しくは「2009年03月30日 8年の恨みが雪解けに、心が通じ合う日」を参照)に書き込んだ時点で、風間から私にメールが送られてきた。その件を、ブログに書かないようにとの依頼だった。

<次回>