解明!「偏向報道」全盛期の原理とメカニズム

 ニュースとは、いつ(When)どこ(Where)で、何(What)があったかを伝える無色無臭かつ透明なものだ。誰(Who)がやったかを断定しない。「誰か(Somebody)がやった」ということにしかならない。その原理は裁判所にも通じている。

 私がロイター通信社で働いていた頃、同僚のジャーナリストがそう教えてくれた(私は記者ではない)。

 事象(What)を伝えるうえで、「何も足さない、何も引かない、何も断定しない、絶対に善悪の価値判断をしない」という鉄則があった。しかし、いまのメディア記事をみたら、都合の良いものを足し、都合の悪いものを引き、調査もないまま断定し、そのうえ善悪判断どころか断罪までする。この有様だ。

 そこでもう1つの「W」が隠されている。それは、「なぜ(Why)」である。なぜにかかわる問いは、常に埋もれている。

 ここまでいうと、メディア批判の嵐が巻き起こる。私のこの記事はここで打ち切れば、最も都合がいい。たくさんの「いいね」をもらえるだろう。多くの人々がメディアという「敵」を叩きたがっているからだ。その「敵」の話は後で詳しくしよう。ここから書くことは、一般のメディアが触れないタブーだ。なぜ、「なぜ」が隠されているのかということだ。支配者とメディアという2つのレベルに分けて解説しよう。

 まず、支配者レベルの話。

 あらゆる支配者はその地位を保全し、多くの利益を得るために、被支配者の大衆にあることをしなければならない。それは、なるべく大衆に思考をさせないことだ。「なぜ」を考えさせないために、符号を刷り込む必要がある。いわゆる「洗脳」であり、このことはすでに多くの人にも認識されている。ただし、洗脳はなぜすんなりと行われているのか、その「なぜ」が問われていない。

 洗脳作業に使われる「符号」は非常に重要だ。相手に拒否されたら定着できないので、大衆が違和感なくしかも好んで受け入れてくれる符号が必要だ。ついに支配者たちは大発見をした。大衆の欲求を満たすことができる、そういう符号が一番都合が良いのである。

 「敵対心」とは、欲求の1つである。人間は常に「敵」を必要としている。人生は不満や苦難の連続であり、それは誰のせいだという「敵対心」が付きまとう。

 たとえば、病気。われわれは「闘病」という言葉を使っている。病気が敵だから、闘うわけだ。よく考えて病気は敵であろうか。がん細胞はあくまでも細胞の1種類に過ぎない。コレステロールは善玉や悪玉まで善悪の規定を付けられている。笑うに笑えない。病気と闘うことで、患者の正義感が満足され、医療業界の利益にもつながる。悪い話ではない。

 病気と並んで、貧困。貧困は自己責任だ。昨今日本人のなかに、「自己責任」の拒否派が多い。それはつまり、自分の不幸は自分でなく、他人(敵)の責任だという敵対心を生み出す潜在意識なのだ。ジェンダー問題やら人種問題やら、世界を見渡せば「敵」がいっぱいではないか。

 その延長線上で、広義的な弱者に正義が付与され、強者(時には単に対置された相手だけだが)は不正義の立場に立たされ、なおかつ弱者が強者に打ち勝つ結果となれば、弱者の「闘争・正義実現欲望」が満足される。

 次に、メディアレベルの話をしよう。

 情報が溢れる時代になればなるほど、情報の価値が落ちる。メディアは生き残るために、とにかく読者・視聴者が「知りたい」「読みたい」「見たい」「感じたい」ひいては「こうあってほしい」という情報を売り物にせざるを得ない。古き良き時代の「無色無臭かつ透明」な情報は、売れなくなったのである。

 マーケティング用語でいうと、色付けや味付けのない情報サービスは、「差別化ができていない」ということになる。評論家業も同じで、特定の客層に合わせなければ食べていけない。某専門家いわく「この時代は、右にも左にも嫌われる情報のなかに、真実がある」。言い得て妙だ。

 大衆迎合。政治では、ポピュリズムというが、メディア・情報産業では、「顧客のニーズとウォンツ」に言い換えられる。

 以上、私が言ったことは、誰かを批判する意図はまったくない。無色無臭な事実には、善も悪もないからだ。

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