サラリーマンは奴隷ですか?

 「あらゆる人間は、いかなる時代におけるのと同じく、現在でも奴隷と自由人に分かれる。自分の一日の三分の二を自己のために持っていない者は奴隷である」

 ニーチェはこういう。

 最近、日本国内の行き詰まりで、空前の起業ブームを迎えている。特に、中国に来て起業したいという人がどんどん増えている。社長になってどこが変わったかときくと、「自由になった」とほぼ全員が口をそろえる。

 「自由」とは、おそらく二つの意味が含まれている。一つは、物事を自分の裁量で決められるという「自由」。もう一つは、時間を自由に支配できることだ。

 時間の自由支配について、社長になれば、一日すべての時間を自分のために持つことができる。紛れもない「自由人」だ。では、サラリーマンはどうだろうか。一日の三分の二というと、16時間。会社の仕事は残業ゼロにしても8時間、通勤や雑務を入れると10時間は超える。睡眠の時間は、生命維持のためであって、果たして「自分のため」といえるのだろうか。どう考えても、サラリーマンは、「三分の二」の達成は難しい。すると、サラリーマンは全員、「奴隷」になるのか?

 でも、よく考えると、私自身のサラリーマン時代は、「奴隷」の感覚を一度も持ったことがない。「奴隷」になりかけるとき、転職や脱サラに踏み切ったのだった。サラリーマンは、形上会社のために働いても、絶えず自分の成長につながっていれば、決して「奴隷」ではないはずだ。

 「老板のために働いている。私たちは奴隷のようなものだ」という中国人従業員もいるが、私はこう答える。

 「いや、あなたは奴隷じゃない。本物の奴隷は、監禁され、労働を強要される。あなたは、いつでも脱走できる。だから、奴隷じゃない」

 もし、それでも奴隷だというと、いまの中国の労働法令は、まさに奴隷に対しての「奴隷逃走自由法」である一方、企業に対する「奴隷追い出し禁止令」になる。

 本物の奴隷は壮絶な奴隷史を書き上げたが、奴隷と自称しても脱走しない「偽奴隷」は、歴史に見捨てられる。

 「逃走権」があっても逃げない「奴隷」の労働者、そして、労働者を「奴隷化」する企業、これこそ、「奴隷史」よりも悲惨な歴史ではないか。