<雑論>力による現状変更 / 兄弟は他人の始まり / スターバックスと宗教

● 力による現状変更

 安保理決議なき侵攻。米によるイラク戦争と露によるウクライナ戦争は、同じ性質ではないか。米国は国際法上の責任を追及されなかった。これは戦争の合法性、少なくとも特例的合法性、あるいは特定国家の免責特権を意味する。

 「力による現状変更」を許さないというが、「力による現状変更」を抑止できるのはまた、力。植民地時代から、西欧列強や米国を見ればわかる。全て力による現状変更だった。そして、利権を手に入れた時点で今度は、「力による現状維持」に転じる。それだけの話。

 力とは最終的に戦争。戦争とは、貧しい家庭の子が戦場で死ぬことだ。主権とか、正義とか、人権とか、人道とか、反侵略とか、国際法とか、国際社会とか、すべてが概念、美辞麗句にすぎない。

 厳しい世の中、われわれは生き延びるだけで精一杯。だから、美辞麗句、綺麗事をペラペラ垂れ流すのをやめよう。綺麗事を語るには、それなりの財力と知力、そして国家なら武力、つまり「力」がまず必要だ。私はその力を十分に持ち合わせていないから、綺麗事を言わない。いや、言えない。分不相応なことを言うのが見苦しいからだ。

● 兄弟は他人の始まり

 兄弟は他人の始まり。

 それが事実であれば、良い悪いということではない。事実は事実だからだ。問題は、その事実から目を背け、事実を隠蔽することだ。特に親の前では、兄弟同士がすでに他人になったにもかかわらず、あたかも身内であるかのように仲の良い振りをし、芝居を上演することだ。

 親には「兄弟の他人関係」という事実を知られたくないから、その時限爆弾を美しい風呂敷で包み、問題を先送りする。しかし、問題は水面下で膨らみ、時限爆弾のカウントダウンが進む。そして、その日がやってくる――親が他界する日。親がなくなれば、芝居を続ける必要はもう、ない。時限爆弾はドーンと爆発し、兄弟間に熾烈な戦いが醜くも繰り広げられる。

 親は親で自分の代にその事実を体験しながらも、いざ我が身となれば子供たちの「和」が微笑ましく、それがたとえ芝居と薄々知りながらも、自己欺瞞に近い美しい世界に酔い痴れる。人間ってそういうものだ。美醜善悪の問題ではない。

 兄弟は他人の始まり。それは何ら問題もない。他人なら、他人らしく、きちんと他人同士モードに切り替え、他人同士のルールを作って付き合えばいい。家族や身内の問題をテーブルの上に広げ、堂々と議論し、「権利」と「義務」をはっきりさせる。これは後日のトラブルを避ける唯一の方法だ。

 他人だから、すなわち仲が悪いことにはならない。しっかりした信頼関係、共存共栄の互恵関係を築き上げる他人同士は世の中たくさんいる。それを見習えばいい。ましてや、血のつながりのある特別な他人関係であるから、いささかプレミアムではなかろうか。

● スターバックスと宗教

 私はスターバックスには絶対に入らない。あれは「宗教施設」で私は無宗教者だからだ。

 世の中、一番パワーを持っているのが信仰。その信仰を産業化したのは宗教。宗教は数千年経っても潰れないフランチャイズである。宗教の客は信者。信者とは、自分で独自の信仰を持てない大多数の人々だ。彼たちは標準化された宗教を必要とする。

 世の中、最も強い産業は宗教。それを凌駕するものはない。もちろん、宗教は絶対にその話をしない。人々に独自の信仰を持たせようとしない。

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