松下幸之助や稲盛和夫、日本型経営論の迷路

 松下幸之助や稲盛和夫の経営論は、鵜呑みにしてはいけない。これらを勉強し、コピーしても失敗する場面が多い。彼らの本家でさえ怪しい。パナソニックはなぜ、衰退したのか?京セラはなぜ、色褪せたのか?

 彼らの理論の一部は、成長社会に適したもので今の飽和社会に通用しなくなっているからだ。動態的に変動要素を折り込む必要がある。さらに、「経営哲学」と称しても哲学そのものではなく、哲学を運用した実務的経営論にすぎない。

 哲学は、数千年経っても時代を超えて通用する。しかし、彼らの経営論は、そうではない。彼らの「論」や「説」をそのまま覚え、真似るのではなく、彼らの哲学の学び方、理論の作り方を学ぶのだ。

 例えば、稲盛和夫の「アメーバ経営」。あれは管理会計の実践論にすぎない。では、管理会計の原理とは何か、さらにその上流にある哲学とは何か、源流を遡り、追求する。以前、京セラの幹部から聞かれて、私は「アメーバ経営論の立花改造版・海外版」を説明したことがある。

 それから、もう1つ。彼らの理論は日本のメンバーシップ型雇用制を背景にするものであり、海外のジョブ型雇用に適用せずアレルギーを引き起こすことがしばしばある。

 成功者の真似をして成功する者は少ない。しかし、失敗者の真似をしてほとんどの人が失敗する。なぜ?成功者の成功体験談、特に成功に導く理論のほとんどは後付けされたものだから。

 心理学が教えてくれたこと――。人間の行動は、「思考・判断・意思決定→ 行動」と思われがちだが、実は違う。逆なのだ。ほとんどの人は、「何んとなく」感や「非論理的要素」で行動を起こしてから、その行動を正当化するためにそれなりの論理を肉付けしていくものだ(後付け説)。

 成功とは、その時、その場所、その人物、そのやり方、言ってみれば諸要素・諸状況の偶然たまたまの結合であり、はっきり言って幸運でしかない。松下幸之助や稲盛和夫は今の時代に生き、その当時のやり方でやったら同じ成功を収められたのだろうか。あるいは天才の彼らは別のアプローチを取り、成功を収め、そこから別の理論が生まれていたのかもしれない。

 故に、コンテキストがもっとも大切だ。松下幸之助や稲盛和夫の成功物語については、そのいわゆる単なる「論」や「説」ではなく、コンテキスト(文脈・脈絡)を捉えたうえで、丁寧に読み解く必要がある。結局、彼らの哲学の学び方、使い方を学ぶことになる。

 では、成功の哲学や法則はあるのか?ある。それは、「天時・地利・人和」(孟子)に尽きる。前述したとおり、諸要素・諸状況の偶然たまたまの結合であり、「運」である。

 戦後日本の高度経済成長はまさに、「天時・地利・人和」3者の結合。その後、時代が変わり、まず「天時」が損なわれ、次第に産業の海外移転・サプライチェーンの海外依存で「地利」も失い、最後にいよいよ「人和」が崩れ始めた。だから、今の日本には国家として成功する要素は見当たらない。

 ただ国家の失敗は必ずしも、企業や個人の失敗になるとは限らない。逆に国家や社会が置かれた不利な状況が、企業や個人にとって「天時・地利・人和」の結合になる可能性も大いにある。その可能性を見出すのは、経営者・個人の叡智に依存する。

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