松下幸之助氏の最後の愛弟子・江口克彦先生とフェイスブックで、ちょっとした議論を交わした。発端は「衆知」の話だった。(江口克彦氏 1940年生まれ。慶應義塾大学卒。経済学博士。元参議院議員、PHP総合研究所元社長、松下電器産業株式会社(現パナソニック株式会社)元理事、内閣官房道州制ビジョン懇談会座長など歴任)
衆知を集めた全員経営。松下幸之助氏の「経営哲学」の1つであり、「最高の経営は衆知による経営である」という言葉を残している――。「全員の知恵が経営の上により多く生かされれば生かされるほど、その会社は発展するといえる」
これは、哲学ではない。松下氏がその時代その状況下の成功を総括した経験談でしかない。決して間違いとは言えない。ただ「衆知」型経営の成立と成功は様々な条件を必要とする。ここでは、意思決定形成段階と実施段階に分けて、「衆知」型経営のリスクを取り上げよう。
● 意思決定形成段階の危険性
「衆知」に基づく意思決定は、組織全員の利益のベクトルが一致することを前提とする。
たとえば、家族経営で家族全員が利害関係を共有している。その全員の意見はいろんな視点を提示してくれるので、大変有益である。戦後の高度経済成長期において、ものをつくれば売れるという大量生産モデルには、終身雇用制が高度の親和性を有していた。まさに全社員が「家族」で利害関係が一致していたからだ。
しかし、今の時代が大きく変わった。メンバーシップ型日本型組織の弊害が徐々に表れ、終身雇用も亀裂が入り、さらにAIの発展で将来、このような疑似家族型経営は成り立たない。松下氏はこれを想定していたのだろうか。いつリストラされるかわからないような状況下では、社員の利害関係も多様化する。
各個人の利害に基づく個別意志の単純総和は、必ずしも一般意思(全体最適化)(ルソーの社会契約論)につながるとは限らない。いや、むしろならない場面が多い。経営者は従業員の意見に耳を傾ける必要はあるが、単純にそれを総和として集結したり、調整したりするのではなく、そこから共同体の利益を最大化するための一般意志を抽出し、意思決定しなければならない。たとえ従業員の意思に反しても毅然とした態度で押し切る。それができない経営者は失格だ。
● 実施段階の危険性
人間は常に、「オプティマル(optimal)」たる「最適解」や「最善策」を探し求めている。衆知を集め、熟議したうえで形成された意思決定は、仮にそれが最適解、最善策だとしても、オプティマルにたどりつくまでは、長い時間やコストがかかることがある。さらに長い時間がかかった故に、状況が変わり、そこで得られたオプティマルはもはや、最適でも最善でもなくなっていることすらある。
もう1つの概念、「ヒューリスティック(heuristic)」とは、必ずしもすぐに最適解を導けるわけではないが、ある程度のレベルで最適解に近い解を得ることができる方法である。ヒューリスティックスでは、答えの精度が保証されない代わりに、回答に至るまでの時間が少ないという特徴がある。
状況が刻々と変わる変化の早い現代社会では、時と場合にもよるが、オプティマルよりも、ヒューリスティックのほうが威力を発揮する場面も多い。前述した戦後経済高度成長期以降の時代の変遷はまさにこれにあたる。
そこで既定方針(いままであった意思決定)に対する再議論と修正が求められる。たとえ、松下氏の理論であっても、懐疑的に批判的に捉えることが必要だろう。松下氏の理論を名言化、聖典化するほど愚かなことはなかろう。たとえ聖書であっても、それを否定する勇気を持たなければ、哲学とはいえない。筋金入りの経営者にも程遠い。
繰り返してきたように、「哲学」とは「経営」の名がついた時点で、すでに哲学ではなくなっている。
● 「哲学」かどうかの議論
松下幸之助氏の最後の愛弟子・江口克彦先生との議論の結末について。松下氏の理論は、「経営哲学」または「哲学」かどうか、私は否定的だった。江口先生も、「『哲学』と言っていない」と否定した。ところが、江口先生のサイトに堂々と「松下幸之助哲学」と示されていた。再三の検証で、やはり「哲学」ではないことに、江口先生が気づかれたのであれば、それはまさに「哲学」的な態度であり、大きく評価されるべきであろう。
松下理論は、「哲学」に程遠いが、「宗教」といったら、イメージが湧きやすい。宗教と哲学は、よく一緒にされるが、全然違う。宗教は、人生はこうだと「規定する」。哲学は、人生とは何かを「問いかける」。松下名言の多くは、説教っぽく、「ああしなさい」「こうしなさい」と。しかし、「なぜああするのか」「なぜこうするのか」と問いかけることはあまり(ほとんど)見ない。
宗教の経典でも、説教が多いが、その「教」は必ず「道」や「理」に裏付けられている。教義は、論理的に説明できなければならない。論破されてはいけない。しかし、松下理論(教)の多くは、議論に堪えられないのだ。それは要するに出来損なった「教」である。
後はもう1つ、宗教を作ってもいいが、自ら「神様」になってはいけないのだ。せいぜい、「預言者」(予言者ではない)どまりだろう。神様は無謬でなければならない。しかし、いざ神様になって誤謬が指摘されたら、一気にイメージが崩れるからだ。
● 余談になるが
私の住むマレーシアも含めて、多くの外国人は、いまだに「パナソニック」でなく、「松下」の名称を使っている。社名・ブランド名変更当時の説明では、「松下の名前はローカルすぎて、グローバル企業に相応しくない」といった内容だったように記憶している。
日本人のグローバル観は歪んでいる。「松下」というローカル名称が世界に根がした時点で、それがすでにグローバル化の大成功だったのではないか。今や、「松下」がグローバル化実現したものの、「パナソニック」ですっかりローカル化してしまった。何と皮肉なことだ。