<雑論>ロシア永遠に戦争を続ける / 国家は嘘をついて生き延びる~「約束」を信じる奴から死ぬ / 欲望全開と全実現という講座 / 民主主義即ち独裁権威主義

● ロシア永遠に戦争を続ける

 2025年5月16日、トルコ・イスタンブールにおいて開催されたロシアとウクライナの高官級和平協議において、ロシア側代表は「我々は永遠に戦争を続ける用意がある」と発言し、威嚇的な姿勢を鮮明にした。これは単なる交渉上のレトリックではなく、ロシアが軍事的にも国家戦略的にも長期戦を前提とした態勢を整えているという意思表示である。

 しかし実際には、ロシアが「永遠に戦争を続ける」必要はない。なぜなら、戦争はウクライナ側の物理的・人的資源が先に尽きることで、いずれ戦局はロシアに有利な形で自動的に収束していく可能性が高いからである。現時点で西側諸国からの軍事・経済支援が継続しているとはいえ、それらは無限ではない。とりわけ兵員の供給という点において、ウクライナは著しい限界に近づいている。

 このまま戦況が推移すれば、今後半年から1年のうちにウクライナ軍は兵員不足によって東部戦線の維持が困難となる。ロシアがドンバス地域に続き、南部を含むウクライナ東部のほぼ全域を制圧するシナリオは、すでに現実味を帯びつつある。しかも、仮にこの段階で戦線が膠着しなければ、ロシア軍はそのまま西ウクライナ、すなわちドニエプル川以西の地域への進軍も視野に入れることになるだろう。

 やがて、ウクライナ側は限られた兵力と資源を「国家の象徴」ともいえる首都キエフの防衛に集中させるしかなくなる。これは戦略上の合理的選択であるが、同時に地政学的・軍事的にはキエフが事実上の「飛び地」として孤立することを意味する。周囲をロシア勢力に包囲された形での首都防衛戦は、いずれ持久戦の様相を呈し、補給線が寸断されれば、内部崩壊は時間の問題となる。

 最終的にキエフが陥落する場合、ウクライナ国家の統治機構そのものが瓦解し、事実上の国家崩壊に至る可能性がある。ロシアが「永遠の戦争」を公言するのは、むしろ西側に対する心理的・政治的な圧力であり、戦術としては、有限な時間の中で有限な敵を、計画的に削り取る戦いであると見るべきであろう。

● 国家は嘘をついて生き延びる~「約束」を信じる奴から死ぬ

 高市早苗前経済安保相は2か月ほど前、テレビ取材でこう語った。「私自身は、ロシアっちゅーのは、歴史的に、絶対に国際約束を守らん国やと思ってます」。この発言を聞いた瞬間、私は思わず膝を打つどころか、頭を抱えた。なぜなら、彼女の発言は、国際政治におけるリアリズム、あるいはマキアヴェッリ的な権力政治の常識からすれば、あまりにもナイーブだからである。

 国際政治は、美徳の競技ではない。そこは信義や道徳の適用外にある力の場であり、国家の生存と繁栄という「目的」があらゆる「手段」を正当化する現実主義の闘技場である。マキアヴェッリが喝破したように、「君主は約束を守るべきだという美名よりも、約束を破ってでも国を守る能力の方が尊ばれる」。国際約束とは、利害が一致している限りにおいて機能する仮構にすぎず、利害が乖離すればたちまち紙屑となる。ロシアが「国際約束を守らない」のではなく、「守る必要のない場面では当然のように破る」のであって、それはロシアだけではなく、どの大国も同じである。

 むしろ、約束を神聖視する政治家こそ、国際政治ではもっとも危険な存在である。なぜなら、彼らは「相手も自分と同じようにルールを守るはずだ」という危うい前提の上に戦略を組み立てるからだ。冷徹な現実主義の眼を持たない国家は、幻想の中で信頼し、依存し、裏切られる。その最も典型的な失敗例こそ、かつてのポーランドやチェコスロバキアが西側諸国の保証に過剰な期待を抱き、結果としてソ連やドイツの侵攻を招いた歴史である。

 逆に問いたい。高市氏が信頼を寄せるアメリカは、果たして「国際約束を律儀に守る国家」なのか。京都議定書からの離脱、TPP脱退、イラン核合意の一方的破棄、国連の多数決を無視したイラク戦争、そして自国の利益に反すると見ればWTOすら否定する姿勢。これらはすべて「約束より国益」「信義より力」を地で行く行動であり、実のところ、マキアヴェッリが最も高く評価したであろう政治的合理性の体現である。

 国家にとって最も重要なのは、約束を守ることではなく、国益を守ることである。約束とは、守るべきものではなく、必要に応じて利用し、不要になれば破棄するための道具にすぎない。つまり、信用とは力の副産物であり、道徳とは勝者が後から書き換える物語にすぎない。マキアヴェッリは『君主論』で述べた。「人間の行動の結果だけが判断基準である。結果が良ければ手段は問われない」と。

 高市氏のように「約束を守らない国家は信用ならない」と語る者は、マキアヴェッリ流に言えば、君主の資質を欠いた人物ということになる。国際政治において重要なのは、相手が約束を守るかどうかではない。相手が約束を破る可能性を常に前提に置き、それでもなお自国の利益を確保できるよう、二手三手先を読んだ戦略を準備することである。つまり、道徳ではなく力によって信義を構築するのが、現実政治の作法である。

● 欲望全開と全実現という講座

 最近、あるセミナー広告に目を引かれた。「欲望全開――欲望すべて実現講座」と銘打たれたものである。表現は扇情的であるが、そこに逆説的な興味を覚えたのは、「欲望」と「実現」の関係が必ずしも幸福に直結しないという、行動経済学的視点によるものである。

 仮に10の欲望を持ち、それをすべて実現したとしても、人間は「期待通り」という状態に過ぎず、前進感はない。つまり、喜びは僅かかゼロである。仮に8しか実現できなければ、差し引きマイナス2の失望が生まれる。逆に、初めから5つしか欲望を持たなかった者が8を実現すれば、期待を上回る成果により大きな喜びを得ることができる。

 これは、参照点理論(Reference Point Theory)に基づく人間心理の典型的な表れである。人間は絶対的な成果よりも、参照点との差によって満足・不満足を判断する。

 さらに問題は、10を実現した人間が、それを終着点とせず、やがて15、20と欲望をエスカレートさせていく点にある。欲望とは達成によって消えるものではなく、達成によってむしろ増幅される性質を持つ。際限なき欲望の膨張は、どこかでの挫折を不可避とし、それが深い失望や不幸感へとつながる。

 私は基本的に夢や希望を語らない人間である。なぜなら、期待値がゼロであるならば、+1でも+2でも、予想外の喜びとして素直に受け入れることができる。これは単なる厭世主義ではなく、計量的幸福論である。高い期待値を掲げ、それに届かず失望を繰り返すよりも、初めから期待値を最小化することで、現実から得られるプラスの感情を最大化するという合理的態度である。

 現代資本主義は、制度として欲望を煽動する構造を持っている。「もっと欲しなさい」「もっと高みを目指しなさい」というメッセージを、メディア、教育、ビジネスのあらゆる場面で無意識に発信し続ける。ゆえに、この構造は本質的に持続不可能であり、サステナビリティを繰り返し叫ばなければならない理由が、まさにそこにある。

 なお、件の「欲望全開講座」の講師は、プロフィールやSNS投稿を見る限り、決して贅沢で派手な生活をしている様子ではなく、むしろ堅実そうな一般人であった。華美でも派手でもない人物が「全開の欲望」をテーマに掲げて講座を開いているという構図は、興味深い。こうしたセミナーは、どのような層を対象とし、いかなるコンテンツ構造で収益化されているのか。コンテンツビジネスとしての設計にもまた、少なからず関心を抱かされた。

 欲望を売る講座と、欲望を制御する思考のはざまで、現代社会の矛盾が静かに顔を出すのである。

● 民主主義即ち独裁権威主義

 私は以前から一貫して主張している――。この世界に存在する統治制度はただ一つ、すなわち独裁権威主義である。

 民主主義とは、あくまでもその一変種に過ぎない。いかなる統治も、最終的には誰かが意志決定を行い、他者がそれに従うという構造を持つ。選挙で選ばれた代表であれ、党指導部であれ、王であれ、そこに存在するのは意志の集中=支配であり、それを私は独裁と呼ぶ。民主主義は「民意が反映される」などという幻想によって正当化されているが、実際には政治的無関心が多数を占め、世論はメディアと感情によって扇動される。

 選挙は合法化された感情の集計に過ぎず、その結果生まれる統治は、形式がどうあれ本質的に独裁である。しかも民主主義国家においても、いざとなれば「緊急事態」や「非常権限」によって強制力が発動され、自由は停止される。つまり、民主主義は独裁を否定する制度ではなく、「共感と正義」の衣をまとった独裁である。

 共産党型独裁のように露骨であれば反発が生じる余地があるが、民主主義型独裁は人々の承認を伴っているがゆえに、その支配は可視化されず、むしろ熱狂的に歓迎される。

 この意味で、民主主義は独裁の最も洗練された形式であり、権威主義の高度進化形態に他ならない。

 民主主義のすべては、選挙という一つの手段に完結している。言い換えれば、民主主義とは「選挙によって選ばれた権力者は正統である」という前提に基づいた制度であり、その中身や結果の質は問われない。この構造は、まさに手段が目的と化した状態である。選挙が行われさえすれば正当性が担保されたと見なされ、実際の統治内容や政策の合理性、民意の真の反映といった本質的問題は制度の外に追いやられる。

 民衆は候補者を選ぶことは許されていても、制度そのものを問うことは許されていない。こうして選挙は、制度維持のための神聖不可侵な儀式となり、民主主義は制度の形式を守ることが自己目的化した、近代的信仰体系となる。結果として、民主主義は「誰が正しいか」ではなく、「誰が多数派の気分に乗れたか」によって全てが決まる、極めて情緒的かつ制度依存的な支配形態に陥っている。

 「民意」は、「民情」を代表しても、「民利」を代表しない。

 民主主義においてしばしば信仰のように語られる「民意」は、実のところ民情、すなわち感情の空気によって形成されるものである。だがその民情が、必ずしも民利、すなわち民衆自身の真の利益を代表しているとは限らない。むしろ、民意が高まるときほど、その中身は短絡的な怒り、不安、熱狂、同調圧力といった情動によって構成され、冷静な利害判断や長期的な公共性は後景に退く傾向がある。

 ポピュリズムの台頭はその典型であり、選挙という民意の具現化装置が、実際には民利を損なう決定を量産するという矛盾が顕著である。つまり、民意とは制度的に神聖化された情動の集合であり、民利はしばしばその犠牲となる。ここに、民主主義の致命的な逆説がある。すなわち、民衆が自らの感情によって自らの利益を損なうという、制度的自己破壊の構造である。

タグ: