● 「録音」に大騒ぎする国民
ある日、隣国から「密録」が届けられた。タイの首相がカンボジアの元首相と電話で語り合ったその内容が、堂々と晒された。それを見た国民の中には、「うちの首相はこんなこと言ってたのか!」「隠してたなんて許せない!」と、まるで正義に目覚めたような顔をして怒鳴り散らす者が現れた。
しかし、録音された中身よりも、その録音という行為そのものが卑劣なのだと気づかぬ者は、まさに火を放った者ではなく、火に驚く者を責め立てる愚か者である。
本当に成熟した国民とは、「内容がどうであれ、我々は自国のリーダーを見極め、選び、託している」と堂々と言える人々である。密録を突きつけられても、あわてふためくことなく、こう返すべきだ――。「録音でも何でも勝手に出せばいい。我々は自国の首相を信じている。あなたがこんなことをするから、まともな国家対話ができなくなるのだ」
この一言が言えれば、それは民度という名の国防装置である。録音に反射して怒る者は、情報兵器に対する無防備な裸の大衆にすぎぬ。そもそも、非公式な私的会話を録音し、相手の同意もなく公開する行為は、スパイとゴシップ記者の悪癖の合体である。
外交の世界には建前と裏がある。裏で本音を言えるからこそ、表でうまく踊れる。それをぶち壊して「録音だ」と騒ぐのは、演劇の舞台裏を勝手に中継し、俳優の私語を批判する観客のようなものである。そんなやり方を常態化すれば、誰も信じ合わず、誰も本音を語らず、世界はどこまでも浅く、薄く、嘘だけが上滑りする場所になる。
民衆の未熟さは、内容に一喜一憂し、手段の邪悪さを見過ごすところにある。録音の中身をめぐって、「これは失言だ」「これは問題発言だ」と騒ぐ前に、それをなぜ今出すのか、誰が出したのか、誰にとって得なのかを問う知恵がなければ、愚か者は永久に利用され続けるだけである。
録音は証拠ではない。録音は武器である。それを使って外交を破壊し、民衆の感情を煽り、信頼をズタズタにする者がいる。そして、それに乗せられて大騒ぎする国民がいれば、国家は外からではなく、内なる愚かさによって滅びる。民度とは、声を荒げることではなく、沈黙のうちに立つ尊厳である。

● 二重回帰不能の国ニッポン
冷戦2.0の時代に入り、日本は再び「経済的前衛」としての役割を世界から期待されつつある。技術と製造が戦略的価値を持つ地政学の時代が再来し、もはや起業家の情熱や民間の創意だけでは国家的な産業再興は不可能となった。問われているのは、制度と資本を国家として動員し、産業の根幹を再構築する主体性の有無である。そのためには、日本が与えられた外在的役割を、内在的に引き受ける意思・意欲・能力・キャパシティを備えているかが問われる。だが、実態は以下のような構造的不全に覆われている。
第一に、意思がないのではなく、自己規定の意思が未形成である。戦後日本は、米国の秩序に従属する形で与えられた役割をこなしてきただけであり、みずから戦略的主体として振る舞う国家意思を持たなかった。戦後憲法と安保体制の下で、国としての戦略的自我は育まれず、中国やロシア、北朝鮮と真正面から対峙する覚悟も政治にも国民にも形成されていない。
第二に、経済的復活への願望はあっても、それが戦略的欲望として国家政策に転化されていない。ノスタルジックな期待やバブルの再来を夢見る意欲はあっても、それは単なる願望でしかなく、能動的に世界秩序の形成に寄与しようという発想は政治エリート層にすら希薄である。官僚、政財界を含め、安全保障と産業政策を連結させる国家的意欲が存在しない。
第三に、日本にはまだ製造力も教育水準も潜在的な能力としては残っている。しかし、これらが戦略的文脈に位置づけられることなく、個別の点在能力として拡散・劣化している。国家としての統合力がなく、能力は眠っているのではなく、「使われない能力」として腐敗に向かっている。
第四に、最も致命的なのは、制度と社会のキャパシティが著しく劣化している点である。官民連携は断絶し、人材育成は戦略性を欠き、長期資本は枯渇し、PEは脆弱である。メディアは情報を解体できず、国民の多くは戦略という言葉に思考を停止している。やれる人間・技術・企業が存在しても、それらを制度として束ね、社会的な合意と耐性をもって推進できる器がない。仮に米国から前衛としての役割を期待されても、日本はそれを実質的に引き受ける体制を欠いている。
以上のように、日本には期待される外在的な役割が存在しているにもかかわらず、それを引き受けるための内在的構造が決定的に欠けている。そのため、外からの要請はチャンスにはならず、プレッシャーとしてしか作用しない。この構造が変わらない限り、日本は冷戦2.0においてもまた、消極的な前衛、代替不可能な消耗品として使い潰される運命にある。
さらに現代の構造的な矛盾として、「手足を使う産業」が消え、「頭を使う産業」だけが残ったことにより、頭を使えない者は社会的「無用者」として位置づけられることになった。かつてなら肉体労働に吸収されていた層は、今や行き場を失い、生活保護と福祉の受給者として制度のコストになっている。しかもその者たちが、民主主義制度上「口出し権」=選挙権を平等に持ち、政治判断に関与するという現象が起きている。頭は使えない、手足も使いたくない、しかし口だけは出す――この構図が制度の破綻を加速させている。
第三次産業から第二次産業への回帰は不可能であり、同様に、民主主義制度から独裁・権威主義制度への回帰も現実的には不可能である。この二重の回帰不能が重なることで、国家的再構築=制度刷新を前提とした産業政策の再起動そのものが構造的に不可能となる。日本は今、その詰みの構図のただ中にある。
● 一票あたりのコストは200万円
現代社会において、「自由」や「権利」という言葉は、もはや信仰に近い絶対的価値を帯びて語られている。しかし、その裏側に潜むコストについて、私たちはどれほど自覚しているだろうか。
民主主義とは、単に「選べる社会」ではない。それは、「選ばされる構造」の中で、「選んでいると信じさせられる仕組み」である。そこには「責任」も「義務」も曖昧化され、ただ「自由」と「権利」だけが独り歩きしている。だが、世の中に「責任なき自由」や「義務なき権利」など存在しない。
AIによる試算では、日本の民主主義の維持にかかる年間コストは、可視的支出と不可視的損失を合わせて65兆円超に上る。これはGDPの12%を超える数字であり、1世帯(4人家族)あたり約220万円の負担に相当する。平均して2年に1度の国政選挙が行われるとすれば、成人2人の家庭において一票あたりのコストは実に200万円だ。果たして、私たちはその一票にそれだけの価値を感じているだろうか。
この莫大なコストは、大衆の「自由の代償」であると同時に、特権階級にとっては巨額の利益源となっている。彼らにとって民主主義は、暴力も粛清も必要としない支配装置である。選挙とテレビとSNS、そして少々の幻想だけがあれば、大衆は進んで搾取されるのだ。
「選択肢を与える」という構図は、実際には「どの搾取者に搾取されるか」を選ばせるに過ぎない。この巧妙な構造を大衆は自ら望み、維持する。だからこそ、民主主義は特権階級にとって決して手放せない制度である。
結局のところ、現代の民主主義とは、最も洗練された独裁の形態である。見せかけの自由と選択、そして幻想の権利。その背後では、能動的に搾取される大衆が制度を支え続けている。彼らがその構造に気付かない限り、民主主義は永遠に続く。そして、支配者にとってこれほど都合の良いシステムはない。




