香りの彼岸、ドリアンが私を変えた

 マレーシアでは、例年のように今年もドリアンの季節を迎えた。果物屋には山積みの果実が並び、皮の隙間から漂うあの強烈な匂いが、通りを歩く人々の足を止めさせる。

 今年は豊作の年だと聞く。とりわけ「猫山王(Musang King)」は絶品で、熟した果肉は、まるでシルクのように舌の上でとろけ、芳醇なチーズとコニャックを合わせたような濃厚な香りが、口の奥に静かに広がる。人気の店では1時間以上の行列ができ、果実を前にした人々の表情はまるで聖域に踏み入る巡礼者のようである。

 しかし、かつての私は、この果物を一口も受け入れることができなかった。いや、視界に入っただけで逃げ出したいほどの嫌悪感を覚えていた。ドリアンを愛する人々を見て、私はいつもこう思っていた――「正気ではない」と。ところが、ある偶然の機会に、私とドリアンの縁が始まったのである。今の私が、その「正気ではない」人々の一人になっている。

 なぜこんなことが起こったのか。私の感覚は、どうして極端から極端へとひっくり返ったのか。これは単なる「慣れ」ではなかった。それは、感覚というものの本質、そして人間の存在そのものに関わる問いを、私に突きつけてきた。

 ドリアンの匂いには、「腐敗」の記憶がある。硫黄、ガス、熟れすぎた玉ねぎ……。この匂いが本能的に「拒絶」を呼び起こすのは、人類の進化的記憶のなかで当然のことかもしれない。しかし、フロイト的に言えば、強く抑圧されたものほど、より深い欲望を生み出す。食べてはならない、近づいてはいけないという禁忌が、ある瞬間を境に、反転して「魅惑」に変わることがある。ドリアンとは、そういう存在なのだ。それは、感覚の禁忌に挑戦する悦楽の装置であり、我々の内なる快楽原則を、静かにそして根底から揺さぶってくる。

 ニーチェはこう述べた――「力で世界を変えられない者は、解釈で世界を変える」。ドリアンは変わらない。変わったのは私自身だ。拒絶していた匂いは、今や「待ち遠しい香り」となり、あのねっとりした食感は「この世の極上」に感じられる。私は、感覚の奴隷ではなかった。むしろ、感覚の意味を自ら再解釈し、創造する者だった。

 今年の猫山王は格別だ。とろける甘さと、鼻腔をくすぐる匂いに、思わず目を閉じる。あの昔の自分が、この体験をどう感じるだろうかと考えながら。人間は、変わる。しかも、ときに驚くほど劇的に。そしてその変化は、ただの嗜好の変化ではない。それは、「世界との関係の書き換え」であり、言い換えれば、生き方の再構築なのだ。そう、ドリアンは私に教えてくれた――香りの彼岸には、まだ知らない世界が広がっている、と。