終戦記念日に思う日本国憲法の性善説論

 終戦記念日。日本国憲法を想起せずにいられない。

 「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」の文脈には賛否両論が分かれている。

 性善説的な前提である「平和を愛する諸国民」に対する異論が多い。すべての諸国民が平和を愛するのか、平和を愛さない国民がいたら、日本は危ないじゃないか。ロジック的には、一人でも平和を愛さない者がいれば、結論が崩れることになる。

 ただ、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼する」となっているのであって、「平和を愛さない者」には信頼しなければいいという理解も存在する。では、信頼しなければ、それだけいいのか、明確な答えが出されていない。

 問題の本質は、平和を愛するか愛さないかではなく、平和と利益の優先順位にあるのである。

 一つの仮説を立てよう。仮に、全世界の諸国民がすべて平和を愛する者であることとしよう(そう信じたい)。では、平和と利益(国益や個益)、その二者の優先順位を決めるとなると、どうなるのだろうか。平和のために、利益を損なってもいい。あるいは、利益のために、平和を損なってもいい。その選択に、前者という明確な結論を出しているのは、日本の鳩山元首相くらいではないだろうか。彼の「友愛論」は、私の感覚的に、国益よりも友好優先であると思うし、現に氏の行動もこれを裏付けている。

 となると、問題がかなり複雑化する。世の中はもともと、複雑である。性善説的な前提というのは、個人のメンタル的によろしいが、国際政治や外交の場では通用しない。戦後の日本は、「戦争否定」の一色で、「国益肯定」論はついこの数年はじめて語られるようになった。これは決して正常とはいえない。

 議論の土俵が必要だ。平和憲法はアンタッチャブルという前提はおかしい。平和憲法の改正すなわち不平和憲法の成立という結論には直結できないからだ。むしろ、いまの憲法は本当に最善な平和憲法か、これを議論すべきだろう。より平和な憲法に改めることに異議を唱えるものはいないだろう。