日本の博物館化と海外への飛び出し方、グローバル化再考

 「このままだと日本は過去の遺産しかない『博物館のような国』になる」(2015年10月22日付「ダイヤモンド」誌オンライン記事)

 私のMBA出身校中欧国際工商学院(CEIBS)ジョン・クエルチ教授の取材記事。クエルチ教授の授業は私も受けたことがある。今回の取材記事を読むと、氏のマーケティング的な観点には基本的に賛同するものの、文脈の展開に若干の違和感を覚えた。

 グローバル化、そして、イノベーションという日本が抱える二大課題が取り上げられた。

 まず、「グローバル派 vs ローカル派・・・」という前提設置は、やや欧米的である。そこで「日本経済が再生するには、あらゆる分野でグローバル派を増やしていくしかない」という結論に至る、というところが少し短絡的ではないかと感じる。

 さて今の日本では、グローバル派は少ないのだろうか。これ以上グローバル派を増やしさえすれば、日本経済が再生できるか。

 グローバル化という概念は、量と質の二重解釈が含まれている。クロスボーダーの商取引や資本移動、そして人員移動の増大という可視的量の変化がある一方、もっと潜在的本質的な部分があるはずだ。それは何かというと、当事者の意識や思考回路のモード・スイッチ機能である。シンプルにいうと、異なるローカルベースに立脚する非常識の常識化、常識の非常識化機能である。

 「日本だと、こうです」。海外で会う日本人からは、このようなセリフがよく出る。人間は知らずに自己属性的常識を引き出し、異常と感知したものと比較し、「異物」に本能的拒絶反応を示したりする。

 海外に出れば、そこが「グローバル」ではなく、あくまでももう一つの「ローカル」である。だから、その異なる「ローカル」を異物や非常識と感受せず逆にそれをすんなりと受け入れ、その感覚で行動していく。これができるかどうかである。換言すれば自分の中に、もう一つ、いや二つ、できればもっと多くの「ローカル」を作ることだ。

 このような複数の「ローカル」は決して相互否定してはいけない。あくまでも住み分けし、相互の影響をなるべく排除する。Xという事象は、Aローカルモードにおける常識だが、Bローカルモードでは非常識になる。このような対立や矛盾を抱えず、あえて隔離する壁を作ってやることだ。異なるローカルモードの集合体、そしてそれに付随するスイッチ機能こそが、広義的な真のグローバル化であると、私は考えている。

 次の課題、日本におけるイノベーション力の低下について、これもいろんな視点があると思う。クエルチ教授が指摘している「日本の社会全体にイノベーションを生み出しにくい雰囲気が蔓延している」という現象は一種の事実だ。ただその原因の掘り下げをもう少し深くしていただけるといいなあと感じた。いずれも短時間の取材では片付けられない題材で、批判するつもりはない。

 「もっと世界の中に飛び込んでいってほしい」という呼び掛けは正しい。ただ、無謀な飛び込みはやめよう。最後に、「日本はフランスと同じように『博物館のような国』になってしまう」と警鐘を鳴らされたが、僭越ながら私は一言を補足させてもらいたい――。

 「博物館になってもいいが、入場料とリピーターで稼げる博物館にしよう」