丘の上の豪邸、ジャンクフードばら撒く複式簿記の理論

 自宅の近くにある丘のうえに一棟の豪邸が立っている。庭に滝が流れている、大きな、大きな豪邸である。夜、暗闇の中にはガラス張りの応接サロンから巨大なテレビが映っているのが見える。いやいや、あれはテレビではない、もう映画館だ。

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 近所の噂だと、豪邸の主はマレーシア某有名な外食フランチャイズチェーンのオーナーだそうだ。そういえば以前住んでいたクアラルンプール西の住宅街にも別の外食チェーンの大ボスが住む豪邸があった。

 外食フランチャイズというのは、成功すれば、本当に利益の厚い商売だなと改めて思い知らされた。当初の創業は相当苦労するだろうが、いざのれんが出来て知名度が上がれば、運営システムとノウハウを標準化して加盟を募集する。あとは店長の育成がうまくいけば、事業が成功する。

 「権利収入」という言葉がある。平たく言ってしまえば、「不労所得」。だが、これは先行労働、投資とリスクテークについてくるもので、決して一括りして「不労」とはいえない。財をなしたオーナーもそれなりの労働や資本を投入したのだろう。リスクを取っての見返りにしてはあってしかるべきだ。

 外食フランチャイズ事業は何といってもブランドと標準化。そして店舗数の増殖に伴う大量仕入れや一括加工、セントラルキチン、物流ネットワーク等によるコスト合理化がいっそう収益を押し上げ、その好循環で増殖が増殖を生む形となる。気が付けば、食料という農産品の工業化がどんどん進むのである。

 農園に行って味覚狩りしてその場で頬張る。これが農産品度100だとすれば、それが収穫、包装、防腐処理、出荷、輸送、納品、保管、添加・混合等一次・二次加工処理、配送、店舗保管、調合・調理、サーブという長い、長い流通チェーンをたどってようやく消費者に届けられたとき、その農産品度がどこまで低下しているのだろうか。

 現代社会は高度の分業によって成り立っている。我々一般市民は通常農園や牧場を経営することも完全自給することもできなければ、毎日のように農園に行って味覚狩りするわけにもいかない。あるいは家で食事を作る時間(コスト)を省くという価値を得るために、そこで外食産業の恩恵に預かる。あくまでも価値の交換でしかありえない。

 世の中、得るもの、失うもの、常に均等である。人生も万事もすべて複式簿記だと、私は信じている。豪邸に住む住人たちもたくさんのものを失っているだろう。ただ回りの人には見えないし、知られていないだけである。世間に見えるのは豪邸だけであり、時にはいささか妬みも生まれ、皮肉を言いたくなるものだ。

 ジャンクフードばっかり作って世間にばら撒いて成した財だ。と、私自身も一瞬だけでもそう感じたことはなかっただろうか、改めて自省、自戒したいところである。

コメント: 丘の上の豪邸、ジャンクフードばら撒く複式簿記の理論

  1. 「ジャンクフードばっかり作って世間にばら撒いて成した財だ。と、私自身も一瞬だけでもそう感じたことはなかっただろうか。」
    素晴らしい自戒の言葉ですね。どれだけ成功しても自らに厳しい立花先生ならではのご発言です。きっと一生その姿勢を貫かれるのでしょうね。感服致しました。

    財とは人にいろいろな想いを引き起こすものですね。現代の人から見れば、エジプトのピラミッドなど、「何でこんなもの作ったのだろう。多くの奴隷を使って、国力を疲弊させて何の意味があったのだろう?」と理解しかねることでも、時の支配層にとってはそれこそ人生を昇華させるぐらいの意義があったのでしょう。
    支配者が、競い合うように作ったピラミッドが私たちに栄光より物悲しさを感じさせるように、私たちの社会が作り出した現代の栄光の数々も、未来の人たちには全く理解できないものとなるのでしょうかね。

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