芸能人がんニュースが席巻するとき、観客と劇中人物のカタルシス

 乳がん。アナウンサーの小林麻央さんの乳がんニュースが日本中を席巻している。芸能人や著名人の闘病ニュースが国民的注目の的になる理由は何であろう。なぜ芸能人や著名人が私的な病気を告白しなければならないのか。

 「カタルシス」という言葉を思い出す。

 「カタルシス」とは、もともと哲学者アリストテレスが「詩学」に書き残した悲劇論から、「悲劇が観客の心に怖れと憐れみを呼び起こし感情を浄化する効果」と定義し、作られた演劇学用語である。

 人間には、日常的に心中に鬱積された澱(おり)のような負の感情が放出・解放・除去され、気持ちが浄化されることが必要である。語源的には「カタルシス」は「排泄」や「浄化」、「有害物質を瀉出すること」を意味し、「精神的排泄」といってもいいだろう。精神医学分野では、カタルシスの必要性が認められ、精神療法の用語としても使われているようだ。

 一般人にとってみれば、芸能人や著名人は雲の上のような存在で、彼らの人生そのものがある意味でドラマ化されてしまっている。するとその劇が上演されている間、多くの一般人が観客となり、劇の主人公の不運に共感を覚え、悲劇として劇が展開したとき、カタルシス現象が起こるのであろう。

 悲劇といってもいろいろある。芸能人が覚せい剤服用で逮捕されたことも悲劇ではあるが、なぜカタルシスが起こらないのかというと、犯罪は「悪」だからである。悪の悲劇は同情どころか、非難や批判が殺到し、その悲劇の主人公が罵倒される。不倫やスキャンダルは?それも「悪」だ。違法でなくとも、倫理に反するからだ。不倫悲劇の主人公も罵倒される。

 闘病は、「善」である。人々に勇気を与え、讃えられるべきだ。では、芸能人がもし性病やエイズにかかったらどうだろう。うん、ちょっとその辺は難しい。病気にも「善病」や「悪病」があるのか。世の中、道徳論ほど難しいことはない。性病やエイズに喜んでかかる人などいない。だが、その罹患経過に人々は何となく不徳の匂いを嗅ぎ付けるのである。

 であれば、がんの闘病は「善き闘病」であって、性病やエイズの闘病は「悪しき闘病」になるのだろうか。「悪しき闘病」にならなくとも、性病やエイズの闘病でカタルシスがまず起こりにくい。共感が湧きにくいからだ。がんは一般人にとってより日常的に「身近な」存在だったからだ。

 がんにかかった芸能人であれ、エイズにかかった芸能人であれ、覚せい剤に手を出してしまった芸能人であれば、彼らそれぞれの人生がある。彼たちにとってみれば、少なくとも自身の人生に最善を尽くしたつもりであろう。その個別の最善が結果的に社会にとっての最善ともなり得るし、最悪ともなり得る。しかも、公にされ正か負の世論を巻き起こす。それは、彼たちが劇中人物だからである。

 ただ、いくら劇中人物といえども、彼ら自身も生身の人間である以上、カタルシスが必要な場面もあるだろう。もしやカタルシスの対象となる劇中人物はもっともっと、カタルシスが必要なのかもしれない。

<続編>