低俗読者いての低俗報道、需要と供給あってのメディア市場

 乳がん報道、カタルシスのこと。昨日書いたばかりだが、やはり問題が表面化しつつある。

 報道陣が市川海老蔵宅に殺到する。「無神経な質問」や「行き過ぎた取材姿勢」に一部批判が出始めた。当然のことだ。取材の中身も問題が大きい。「(麻央さんの乳がん発覚から)1年8か月、非常に長い期間だったと思いますが、どんな日々だったのか」というような質問は、まるで人に死を宣告するようなものだ。それに対し海老蔵さんが「長かったとおっしゃいますけど、これからもまだ続くわけですから」と答えるのは、怒りを込めているように思える。

 これがはじめてではない。昨年がんで亡くなった女優の川島なお美さんに対しても、某女性誌の記者が「お墓を買ったんですか?」「ご主人にあてた遺書がある?」など、非常識な質問をぶつけていたという。そこで、決まって記者の資質問題が持ち上げられ、それが批判され、メディアが叩かれるのであった。

 果たしてすべて記者の常識や教養の欠如、その資質が問題だったのだろうか。記者たちは一個人として私的な場面でも、平然とそういう質問をする非常識な人物だとはとても思えない。仕事と割り切っているから、そう聞いているのだ。多くの日本人は「仕事」を神聖化し、「仕事だから仕方がない」とあらゆる問題を正当化する傾向はないのだろうか。

 記者の仕事はニュースを書くことで、メディアの商売はニュースを売ることだ。売れないニュースは書かない。売れるニュースを懸命に書こうとする。命賭けだ。聞いていけないことでもいざ聞いて書いてみると、そのニュースが売れる。だから仕事として心を鬼にして取材するわけだ。記者の心中も決して穏やかではないはずだ。

 もし読者全員がそのような非常識な取材を嫌って、書かれた記事を一瞥もしないのなら、非常識な取材は自然に減少し、そのうちなくなるかもしれない。

 需要があっての供給なのだ。これを決して看過できない。分かりやすい、イージーな、人間本能的な、低俗な、時には極めて下劣な報道や情報に興味津々な日本人読者・視聴者がたくさんいることを看過できない。平均民度の低下がもはや社会問題として深刻化していること、誰もが口にできないタブーだが、それが歴然とした事実なのだ。

 低俗な読者を顧客とするメディアは、当然低俗な報道を書くしかないのだ。