日本人の「甘え」、立花流の「甘い」「辛い」使い分け論

 土居健郎先生の「『甘え』の構造」。1971年初版の古い名著だが、今日読んでも通用するまさに名著だ。

002

 「言わなくても分かるだろう」「空気を読め」・・・。まさに「甘え」の表れだ。同質の共同体内部において、言葉に頼らぬ「空気」がそれなりの役割を果たしてくれる。意思疎通の円滑化、取引コストの低減、いずれもプラス効果であって、否定されるべきではないだろう。

 マイナス効果は主に2つあると思う。

 まず、「内・内」の問題――。本質を探究する議論ができなくなる可能性が大きい。特に縦割りの上下関係が議論を抹殺する元凶となりやすい。上の者が下の者に「言わなくても分かるだろう」と「甘え」をもって期待する一方、下の者は上意を忖度し物事を進める代わりに、上の者に「守ってくれるだろう」と、またこれも「甘え」をもつ。

 次に、「内・外」の問題――。共同体外部の者が入ってきたとき、あるいは共同体の者が外部に出て行ったとき、「甘え」が直ちに異質性を表出し、対立を生み出す場面もしばしば見られる。外部者は「空気を読めない」のだから、「甘え」の期待に応えてくれない。そこで苛立ちを覚え怒り出すこともあれば、怖くて萎縮し外に出ることを拒絶することもある。

 内弁慶という日本人が実に多い。身内にべたべた甘えつつも、外に出ると他人に対しては傍若無人の態度に出る。これと一見逆に見えるパターンもある。内では威張っているが、外に出れば委縮してしまう。いずれも根底にあるのは「甘え」ではないだろうか。少なくとも「甘え」がその一因になっているのだろう。

 要するに、「内外」の差が鮮烈だ。

 日本の外交にも「甘え」が見られる。相手国に「分かってくれるだろう」と期待していると、なかなか分かってくれない。きつく言えないまま、相手国がどんどん迫ってくる。それがある日我慢の限界に達すると、一気に爆発する。これはとても危ない。

 昔、「バカヤロー!」というコメディ映画シリーズがある(森田芳光総指揮・脚本)。ネガティブの感情が量的に蓄積されていくと、それが最終的に質的変化を引き起こし、「バカヤロー」という憤怒の絶叫と化し、爆発する。

 そんな「甘え」を否定的に捉える人もいるだろうが、私はそうではない。使い分ければ良いと思っている。

 土居先生が書を執筆した60~70年代よりも、現今の世界はグローバル化がさらに進んでいる。そこでいわゆる「日本の常識、世界の非常識」といった議論に発展すれば、往々にして日本的なものが批判の対象とされがちだ。それはおかしいと思う。日本の常識を世界の非常識にしなければいい。棲み分け、使い分け、モードの切り替えさえすれば、それでいい。

 「甘え」は、甘いまま外の世界に持ち出さない。「辛さ」も「激辛さ」も持ち合わせて、判断して使い分けよう。