適者生存・格差・無策・可変と不可変事項・民主主義の選択

 先日ブログの読者から、以下のコメントをいただいた。

 「立花氏は適者生存、弱肉強食の思想のもとに、少数の勝者を生み出すための議論には熱心だが、ますます増加する大多数の敗者に対しては、まったくの無策であるように見える。

 また、立花氏は、共産主義は危険であるとのアピールには熱心だが、それ以上の対策はお持ちでないように見える。大多数の敗者は敗者のままであり、共産主義は危険であるという立花氏の主張を受け入れ、ただただ貧困に耐えじっとしているとお考えなのだろうか?

 放置は無策と同じである。私は共産主義を支持するものでない。また全ての社会主義が共産主義への途上にあるとの考えはない。そのため、資本主義の敗者を危険な方向に向かわせないためには、現状では社会主義的な手段(公共投資、セーフティネット、富の再配分の強化等)しかないのではないかと考える。

 それをせずに、富めるもの一層の富裕化、貧困層の増加を放置するなら、富める者は大きなしっぺ返しを食らうことになるだろう。

 立花氏は、ご自身が信じる適者生存をひたすら進めるだけで社会が平和に立ち行くとお考えなのだろうか?常々、他者の無策を批判する立花氏の良策を是非お伺いしたいと考える」

 弱肉強食。以前も似たようなコメントや指摘がたくさんあった。私は幾度も繰り返し信条や観点、立場を述べてきたが、さすがに疲れてきたので、以下のコメント返答をもって原初的議論を終了とさせてもらおう。(以下立花からの回答全文転載)
 
 まず、「適者生存イコール弱肉強食ではない」ということは繰り返し言っている。弱肉弱食、強肉強食も発生しているからだ。弱肉強食も、弱肉弱食も、強肉強食も思想ではない、現象である。適者生存も思想ではない、法則である。私はそんな偉大な思想を持っていない。現実と原理法則を直視しようというのが私の信条である。

 次に、社会の格差に無策というのも現実である。私の仕事は、過酷な現実を変えることではなく、過酷な現実のなかで(企業や企業のなかの個人が)生き延びるための提言・提案である。社会全体の改変に価値をおいていない。これも繰り返し言っている――「変えられるものを変えていこう。変えられないものは諦めよう」

 さらにいうと、私は戦後の日本はむしろ格差がなさ過ぎて異常だったと思っている。だから、いまそれが参照値になって大騒ぎになっているのである。

 最後に、私の管轄範囲外になるが、観点として提示すると、実務上社会主義的な手段はあり得ない。もちろん国民の合意があれば、やっても良いし、やるしかないだろう。それは、富の再分配が簡単だが単に富裕層の富を海外に追い出し、国内貧困を加速させ、そして社会主義の推進で特定の利益集団が交替して支配階級にのし上る・・・、それだけの話だ。そういう意味で、私は「危険」だと言っている。いや、「危険」といっても、国民の合意があれば、危険を冒すもやむなし。

 最後の最後、繰り返しになるが、私の主張は、個人ベースでは「ただただ貧困に耐えじっとしている」ではなく、むしろその正反対だ。貧困脱出、自力救済。それをしようとしない人、それができない人、最終的に貧困滞留のほかに選択肢はない。

 「立花氏は、ご自身が信じる適者生存をひたすら進めるだけで社会が平和に立ち行くとお考えなのだろうか」というのは、私からいわゆる「善なる正論」を引き出そうという誘導仕掛けだろうが、答えよう。平和は願えば実現できるものではない。実現できないものを願うのが時間コストの無駄だ。不平和・不安定・不確実な世界での生き方を探求するのが私の価値所在である。私は現実主義者だ。平和を唱える理想主義者ではない。

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