時間とは?

 時間とは何か?見ることも聞くことも触ることもできない時間とは何か?

 数千億年、数兆年前に何もない宇宙があるとすれば、そこに時間が意味を成すのだろうか。宗教的な「創世記」と「終末」が始終を成すとすれば、その始終の経過を計測するものとして、「時間」の概念が生まれる。

 つまりは、有無の間に数多くの変化が生じ、その変化を表現するには「時間」という計測装置が欠かせないからだ。「静」と「動」の概念を見ても同じ結論になる。絶対なる「静」は無窮の永遠を意味し、時間の意義を否定する。そもそも、「動」があっての「静」であって、「動」をなくして「静」自体も意味を成さない。

 この通り、始終があって、その間に動が継続する。その過程を計測するには、時間というものが必要になる。時間があっての存在ではなく、存在があっての時間という機能論に至るわけだ。

 「時間は金なり」という諺はあくまでも事物の一側面をしか表していない。まず、金の貯蓄性と交換性を時間が持ち合わせていないことである。どうしても価値を評価するなら、時間の希少価値が金よりはるかに高いだろう。

 「時間は金なり」というのは、主観であるとすれば、「諸行無常」が客観となるだろう。この世の現実存在はすべて、姿も本質も常に流動変化するものであり、一瞬といえども存在は同一性を保持することができない。この恒常的流動変化を反映するのはまさに時間である。

 将来の夢。――日本人がよく語る言葉だ。ある取材では、「立花さんの夢は何でしょうか」と聞かれたときに、私は考えもせず「夢はありません」と答えた。取材者が少々驚いた表情で、「小さい時の夢は何だったのでしょうか」と聞き直す。「それもありませんでした」と私が二度目の否定回答を出す。

 どうしても夢というなら、私の夢は「自分が決めた死に方で死ぬこと」である。

 人間という生命体の始終は、生と死。その間はいろんな流動変化があって、数十年という時間でそれを反映していくのである。昨日や今日、そして明日という時間の概念のもとで、「夢」がもし意味を成すのなら、その終極は「死」という無に帰すところにある。

 それ故に、5年後の夢、10年後の夢、あるいはもっと長い時間を想定した夢よりも、「死」を前提にして今、この今の「夢」を組んだほうが合理的だ。なぜならば、人間には次の瞬間に死が訪れるかもしれないからだ。