学際の時代、音楽から新たなアプローチを見出す

<前回>

 リベラルアーツ。私は残念ながら欧米系大学での留学経験がなく、学校時代にリベラルアーツという基礎学問に取り組んだ体験がなかった。後日の実務経験のなかから、自分のそうした基礎の欠落に徐々に気付いたのだった。

 哲学と歴史に取り組んでからしばらく経つと、音楽の必要性も感じられるようになった。音楽とは、必ずしも演奏したり歌唱したりして楽しむものではない。音楽という切り口、あるいはアプローチを持つことによって、自分が生きる世界、仕事などの実務の世界をより広い文脈で解釈できるようになる。

 特に古典音楽。その作品には、自然や人間のあらゆる叡智、思考、感情、体験の歴史が凝集されている。歴史という軸を貫き、不滅・不変なるメカニズムが隠されている。その追体験によって、いま、この現実に投影させたり、結びつけることができる。その力こそが、人間の基礎体力ではないかと感じた。

 以前好んで読んでいたいわゆる成功者の体験談たるものも、もはや読む気にすらならなくなってしまう。多くの体験談は後付け的なものにすぎない。ある時点、ある場所、ある条件がそろった場合での成功体験は、果たして完全に複製することができるのか。蓋然性の次元からいえば、それよりも自分の基礎体力を鍛えたほうがよほど効果的ではないだろうか。

 音楽は鑑賞という次元を超えたところ、どんな可能性があるのか。それをいかにわれわれの現実と結びつけるのか。さらに音楽を他の学問と絡めることも価値を生み出す源泉だ。プロコフィエフやショスタコーヴィチから政治的アプローチを見出したり、あるいはワーグナーやマーラーから哲学的示唆を捕捉したりすると、叡智の世界が無限に広がるのだ。

 今の時代は、学際の時代と言って差し支えない。個別の科学や学問分野が単独で成立するよりも、2つ以上の科学はその境界領域が交差し重ね合うことによって新たな解釈、より大きな価値やポテンシャルを生み出す。そういう時代においては、音楽をはじめ、基礎学問一般の存在意義が増大する一方だ。

 AI(人工知能)が世界に浸透しつつある。人間に求められるのは、サバイバル力である。そのサバイバル力は、知的な基礎体力によって裏付けられている。より広範な文脈を作り上げ、そこからより広範なポテンシャルを見出す。それ以外に方法はあるのだろうか。

<終わり>

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