ギロチン理論と復讐のための狡智、自由平等なき革命の虚像

 パリはロマンチックな街であろうか。少なくとも私にとって違う。20代に初めてヨーロッパ、パリを訪れた。真っ先に行ったのはコンコルド広場。ギロチンの露と消えたマリー・アントワネットの魂を探しに・・・。

 フランス革命で多くの罪なき人たちがギロチンにかけられた。自由や平等などふざけた美辞麗句を弄して結果的に、革命とは単なる人間と人間の醜悪な戦い合いと殺し合いにすぎないのである。マリー・アントワネットには罪があったのだろうか。些細な不徳があったにしてもそれが死罪に値するのだろうか。

 「抑圧された者、踏みつけにされた者、暴力を加えられた者は、無力な者の復讐のための狡智から、次のように自分に言い聞かせて、みずからを慰めるものだ。『われわれは悪人とは違う者に、すなわち善人になろう!善人とは、暴力を加えない者であり、誰も傷つけないものであり、他人を攻撃しない者であり、報復しない者であり、復讐は神に委ねる者であり、われわれのように隠れている者であり、すべての悪を避け、人生それほど多くを求めない者である。われわれのように辛抱強い者、謙虚な者、公正な者のことである』」

 ニーチェの「道徳の系譜学」で描かれたルサンチマンは、非暴力的な被抑圧者、いわゆる善人でありながらも、いざ革命という段に来れば、たちまちに豹変し、他人を攻撃するようになり、報復するようになり、そのときだけは復讐の神に自らなり、仇敵をギロチンにかけ、容赦なく命を奪っていくのである。

 自由や平等を実現するための革命。仮に善き意図の現実化が存在し得るとしても、その実現に用いられる自由や平等を否定する手段ははたして正義といえるのだろうか。私に言わせてもらうと、フランス革命の本質は、「法の破壊」にほかならない。目的のために手段を選ばず、それだけの話である。

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