「目指すべき善」と「見渡すべき悪」、孔子とマキアヴェッリ

 正月の休みを利用して、論語の勉強をしている。

 思うには、孔子の思想を乱暴に一言でまとめてしまうと、「べき論」だ。自他がある宇宙のなか、「自」のあり方において「善」を目指すうえでの指針を出しながらも、「悪」の「他」との接し方には触れていない。

 大英博物館は夜も、警備なしで門戸を全開にしている状況を想像すると分かりやすい。大英博物館は見学が無料。これは大いに結構なことだ。善である。それにしても警備措置は欠かせない。悪への防備があってこその善の存続である。

 孔子の思想が「目指すべき善」を指向しているのは、現状がそうなっていないからである。少なくとも世界の全部がそうなっていない。「人間は呼吸すべきだ」と言わない。言われなくても呼吸をしているからだ。「人間は努力すべきだ」と言っているのは、人間に怠惰の本性があるからだ(少なくとも私がそうだ)。

 世界を見渡せば、あちこち悪がゴロゴロしているのに、自身の善づくりに専念していたら、いずれやられる。私は決して孔子思想を否定しているわけではない。言いたいのは、それだけでは不十分であって、それだけでは逆に孔子が目指す「べき論」が机上の空論になってしまうことである。

 「べき論」を実現するための実学が必要だ。そういうときに、私はやはり「マキアヴェッリ語録」を手に取ってしまう。

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