2011年、新年明けましておめでとうございます。
旧年中に皆様から賜りましたご支援、ご厚情に対し、深く感謝申し上げますとともに、新しい年の門出にあたり、ご挨拶申し上げます。
恒例の新年挨拶の執筆にあたり、必ず昨年のものを引っ張り出します。2010年の新年挨拶には、このような一節がありました。
「新年2010年は、中国経済の回復基調は確固たるものになるでしょう。中国の繁栄再来を謳歌するには、時期尚早です。景気刺激策は主にインフラ・設備投資に投じられ、経済成長のカンフル剤にはなりましたが、いよいよその息切れを懸念せずにいられなくなりました。・・・GDPの健全な成長には、内需のけん引がかかせません。内需といえば、国民が安心して金を使える環境を整える必要があります。・・・ 目先では、個人所得増に着目するほか道がありません。そのためには国民の所得分配構造の調整が国家経済政策の重点として位置付けられ、今度は、いよいよ民間企業の賃金制度にまで公権力が介入してきます。『賃金支払条例』など怪しげな名を冠した法令で、労働者の所得は果たして増えるのでしょうか。結果的に、労使ともに惨敗の結果になれば、最悪です。・・・社会における様々な対立が激化しています。そして、その多くの対立は、労使関係に転化されています。コンプライアンス重視の企業ほど大きな痛手を被っています。また、この状況は当分改善される様子はありません。」
大変僭越ではありますが、2010年頭の予測がほぼすべて的中しているように思えます。
オリンピックの次は万博、GDPや派手なイベント、国威発揚しか頭にない中国政府には、いよいよツケが回ってきました――インフレ。2011 年の経済運営方針を決定する中央経済工作会議は、2010年12 月中旬に北京で開かれました。インフレ抑制の一色。物価管制にもいよいよ政府が手を出すと、何か見えませんか。それは昔懐かしい計画経済時代の面影。
見えざる手。
市場経済の要諦を語るアダムスミスの「国富論」をもう一度読んでみたい。市場経済において各個人が自己利益を追求すれば、結果として社会全体の利益が達成されるとする考え方。スミスは個人が利益を追求することは一見、社会に対しては何の利益ももたらさないように見えますが、社会における個人全体が利益を追求することによって、社会の利益が「見えざる手」によって達成されると考えました。スミスは、価格メカニズムの働き、最適な資源配分をもたらすもの、つまり需要と供給のバランスは自然に調節されると考えました。
中国の市場経済も、一応見えざる手によって運営されていますが、ただこの見えざる手一本だけではありません。中国はもう一本の手、公権力という手も持っている。しかも、こちらが利き手。そして、脳もついている。共産党と国家という脳の指揮命令は、政策という神経を通じて伝達され、利き手が市場経済の見えざる手を放任したり、押さえつけたり調節します。さらに、この利き手に、法律という鞭(ムチ)も握られています。
さあ、見えざる手よ、勝手に動いてみろ。アダムスミスもさぞかし真っ青でしょう。
市場経済も、法治社会も、中国では理念なき功利主義、実用主義的に運用されています。見えざる手は脳によって制御され、見える利き手によって操られています。一種の魔術のようです。
見えざる手の誤作動、過度のレッセフェール(自由放任主義)の弊害が指摘され、国家資本主義が台頭しているなか、中国独自のイデオロギーは異様なオーラを見せ始めています。問題の根本は、ロジックの欠如と法治の脱落ほかになりません。
「譲一部分人先富起来(=一部の人を先に豊かにさせる)」という鄧小平の「先富論」とアダムスミスの「国富論」を比べると、相違が一目瞭然。問題は、「豊かになる」ことではなく、「豊かにさせる」ことです。どの手を使って、「豊かにさせる」のでしょうか。見えざる手によって豊かになるのならいいのですが・・・。「豊かにさせる」ところで、気がつけばその大事な前提となるルールが抜けていました。ルールとは、法治であって、法を司る(つかさどる)ことであり、功利的に操る(あやつる)のではありません。
法治不在と倫理不在のまま、「先に豊かになった」人たちは、いよいよ「倉廩(りん)実ちて礼節を知る」のではなく、「衣食足りて淫欲を思う」に傾いてしまいます。
根本的な問題点がここにあります。これを抜本的に解決しないと、あらゆる短期的な政策による対症療法は、ただ異なる種の症状を次から次へと引き起こすだけです。
2011年、インフレの抑制に躍起した中国は、金融政策と労働政策の調整に乗り出します。企業経営にとって労働政策や法制度がもたらす影響は甚大です。人海戦術主流だった企業戦略は、未曾有の深刻な危機に瀕しています。個体労働者の集結により形成されつつある集団労働関係は、政策や法制度の担保を武器にパワーを増しています。この本質的な変化は看過できません。従来の小手先の対応策では、とても間に合いませんし、問題の先送りは問題を深刻化させているだけです。
企業の経営においても、「見える手」と「見えざる手」が存在します。
多発する労働紛争や人事問題、トラブルを一つ一つ、企業は「見える手」によって潰します。その「見える手」とは、制度や制度の運用といった「他律」の部分です。「見える手」がうまく機能しないときは、問題が深刻化したり、慢性化したり、重症化ないし劇症化したりします。それはしばしば制度や運用上の問題に起因しています。
「見える手」がどのくらいの力を持つかによって、企業の人事や経営の状態が一変します。「見える手」という「他律」だけでは、うまくいきません。どんな制度があっても、従業員の「自律」という「見えざる手」をなくして、「見える手」は機能不全に陥ります。
「見える手」にあたる制度、「他律」は、企業経営の極端の悪化またはその進行を抑止する対症療法です。ガンの放射線治療で体が健康になり、強くなることはありえません。ときには一種の延命措置にほかなりません。健康で幸せになるために、ガン治療よりも予防医学です。病気に対抗する抗体の形成、健康のメカニズムの形成という「自律」は欠かせません。
まとめましょう。四本の手――。まず、市場の「見えざる手」、次に、政府の「見える手」、そして、企業制度に基づく「他律」という「見える手」、最後に、従業員自身の「自律」という「見えざる」手。市場の「見えざる手」が政府の「見える手」に押さえ付けられ、機能不全に陥り、政府の「見える手」の力が拡大し、市場や企業に及びます。そこで、企業は自身の「見える手」を完全機能状態にするだけでなく、一刻も早く「見えざる手」の整備に取り組まなければなりません。
年頭の予測とは、何を予測するのか。完全市場国家では、市場の「見えざる手」の動きを予測し、中国のような不完全市場国家(統制の成分が強い国家)では、政府の「見える手」を予測します。そして、企業としてどのような「見える手」と「見えざる手」をもつべきかを考えます。
労働生産性の向上。
これは、2011年のキーワードになるでしょう。すべての手を尽くして、労働生産性の向上に取り組まなければ、企業は間違いなく取り残されます。安い人件費が中国の強みということもあって、中国の現場における労働生産性は十分に注目されていませんでした。スポット的な増産や人員の流動性に対応すべく、余剰人員を抱え込んだ末、一人当たりの生産性が低く、賃金も抜本的に引き上げることはできません。一方、特に現場ワーカーなどの人員確保難は、平均賃金相場の低水準に起因していることはもはや看過できません。慢性化したこのような弊害が一種の悪循環を形成し、在中日系企業を苦境に陥れています。この悪循環からの脱却は、労働生産性の向上にほかなりません。
賃金上昇を恐れない唯一の方法は、賃金を引き上げることです。賃金上昇を恐れない唯一の方法は、労働生産性の向上です。
中国の経営現場のパラダイムを、日本企業の経営者として正しく認識しなければなりません。また、戦略構築のベースとして、パラドックス的(逆説的)な思考回路を必要とします。私はこの数年企業戦略・人事コンサルティングの現場で、数多くの検証を繰り返し、この不変の原理を実証しています。
政府の「見える手」を恐れる必要はありませんし、抵抗すべきでもありません。企業は、自身の「見える手」と「見えざる手」を完備させればよいのです。賃金上昇ならば喜んで受け入れましょう。インフレは確固たる事実ですし、低賃金のままでは従業員の士気も高まりません。どんどん賃金を引き上げればよいでしょう。労働生産性の高い優秀な従業員には、思い切って賃金を引き上げましょう。そうではない従業員は、思い切って企業から排除しましょう。社内では、良性競争のメカニズムと新陳代謝機能を持ち合わせた時点では、怖いものなしです。
経営者の皆さんに覚えてほしいことがあります――。世の中、共に貧しい社会(中国語:均貧社会)はいくらでもありますが、しかし共に富める社会(中国語:均富社会)は存在しません。
社内において言えば、賃金格差があって、そして冷酷に見られがちな新陳代謝機能があってこそ、機会の均等なのです。どうしても、それが「悪」だとすれば、それは必要悪です。結果の平等を掲げ、「善」に飾り立てることは簡単ですが、それは偽りの「善」であり、本物悪です。努力や勤労意欲が育つ土壌を奪い去るな!と叫んでいるのは、コンサルタントとしての私だけではありません。この数年間、数百社という日系企業で行った従業員意識調査の結果は明白です。誰よりも、大多数の中国人従業員が心から変革を待ち望んでいるのです。
目まぐるしく変わる中国市場では、あえてマクロよりも、企業内部というミクロに注目しよう。2011年はまさにこんな一年になるべきだと私は考えます。
立花 聡
2011年元旦