私はこうして会社を辞めました(9)―工場のトイレ掃除

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(敬称略)

 90年代初頭トステムの海外部門は、香港とタイに現地法人と工場があった。私は、香港勤務を希望していたが、会社はしばらく東京本社で修行を積んでからという返事をしてくれた。修行とは1年か2年という感じかなと。

 入社2年目の1992年、私の同期山村(仮名)は香港勤務を命ぜられ、赴任することになった。語学面でいえば私は山村より絶対的な優勢をもっていたし、しかも、会社と香港勤務の約束があったのではないかと、心の中いささか会社に対しての不満をもった。

 私と山村は、同期生の中でも仲が良かった。しかし、香港勤務が決まった山村には何ともいえない一縷の嫉妬を抱くようになった。人間って何と醜いものだろうと自己嫌悪に陥る暇も無く、またもや悪い裏情報が舞い込んだ。香港勤務は、同期に一名しか取らない。すると、私は?すっかり落ち込んだ私は、適当な理由を付けて、山村の送別会をボイコットした。今振り返ってみると、最低な自分だった。

 悪いことは、立て続けにあった。私がいる設計部門は、本社ビルから転出することになった。移転先は、千葉の松戸工場敷地内。通勤時間が一気に片道一時間を越えた。駅から工場までは工場のシャトルバスを使うので、一分でも遅れたら乗れなくなる。かなりのプレッシャーだった。計算すると、一日あたりの自由支配時間が二時間程度減る。

 いままで、スーツ姿で颯爽と本社ビルに出勤していた私たち設計部員は、工場勤務になると、一気にドレスコードが変わった。あのうす緑色の作業服になった。そのうえ、工場の朝礼は、本社時代のように私が自由に時事評論できるようなものではなくなった。ラジオ体操だった・・・

 我慢しがたいことは、まだまだある。トイレ掃除!工場勤務ならではの「醍醐味」だった。「私たちは、特別な存在でも何でもない。工場の方々と同じように、トイレ掃除にも参加しよう」というのが、部長の主旨だった。

 夏場のトイレは、エアコンが無いのでとにかく暑い。便器をゴシゴシ擦りながら、顔から汗がポタポタと真っ白のタイルに落ちる。外は生産現場、耳に突き刺すように響く機械のゴーンコーンの騒音は、いつの間にかヘリコプターのエンジン音に聞こえてくる。4年前、ヘリコプターまで動員した会社見学と入社勧誘の一幕を思い浮かべると、いささか憤怒の気持ちを抱く。

 ある日曜日の午後、日経新聞をペラペラめくっていると、求人欄に一瞬目を凝らした。「ロイター通信社中国・香港地域海外駐在要員募集、年俸800万円以上、英語・中国語必須」・・・これだ!これしかない。しかし、よく見ると、応募条件にほかも色々書かれていた。「メディア勤務経験者、又は金融関連勤務経験者・・・」。もう関係ない。やってみるしかない。とにかく面接にこぎつけるのが第一目標だ。

 そして、月曜の朝、出勤途中の駅前の郵便ポストに、私が人生初めての転職用履歴書を投函した。

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