私はこうして会社を辞めました(19)―北京の冬が寒い

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(敬称略)

 ニュージーランド休暇を終えて上海に戻ると、某大手邦銀上海支店からアポの予約が入っていた。それも1か月後成約。

22007 94年10月、ニュージーランド休暇中に乗馬を楽しむ

 1994年のクリスマスは華やかだった。上海日系企業市場の打開に成功したロイターは、私に大きなボーナスを与えてくれた。引続き、1995年に入っても好調な受注が続く。

 上海の日系市場ではロイター端末の契約率がダントツの90%を超えると、会社が私に新たなミッションを与えた。欧米系と中国系のメジャー金融機関も担当せよ。

 欧米系ではイギリスのスタンダードチャータード銀行やHSBC(香港上海銀行)、フランスのBNPパリバ銀行、ドイツのドレスデン銀行などの大手、中国系では中国銀行等数行が私の担当管轄に入った。

 外銀や中国系銀行からも私が次から次へと受注した。しかし、これは知らないうちに対比とされ、北京駐在の池山にとって不利な材料になった。北京・華北市場の打開は、難航していた。北京が元々金融の街ではなく、政治の街だった。上海ほどの成長を期待してはいけないと私が思っていたが、上司がそうとは考えていないようだった。

 池山も私と同じように、北京空港近くの別荘区に一戸建ての豪邸に住み、高い給料をもらっていた。それだけの人件費をかけている会社が、その対価を求めるのも不自然ではない。その辺は、日系企業で考えられないほどのドライさが外資企業にあった。

 ある日曜日の朝、池山から上海の私の自宅に電話がかかってきた、声がひどく沈んでいた。「私、北京の生活が無理かもしれません」と切り出した。

 どうやら中国人スタッフとの協力関係がうまく出来ていないのが一番の致命傷だったようだ。90年度初頭の北京の暮らしも楽ではなかった。池山が赴任して迎えた最初の冬、北京がとても寒かった。それが余計に気分を暗くしたに違いない。一人暮らしの池山は自炊する気力もなければ、街のレストランで食べるにしても衛生状態や味に違和感を持ち、一日三食、すべて会社の前にある北京ヒルトンホテルで済ませることもしばしばあったとか。

 ロイターの仕事は、チームワークを組まなければできない。受注にこぎつけても、そこからが本番だ。下手にするとすべて水の泡となる。

 まず、ロイター端末での受信は、中国当局の認可を申請しなければならない。その作業も私たちが担当していた。

 それから、当時のロイター端末は衛星受信であるため、特殊のアンテナを取り付けなければならない。それは、顧客企業の入居するビルによって、取り付け工事の許認可申請や実施の難易度がまちまちである。それが難航して、取り付け不可になることもありえる。すべての交渉はロイターの工事部が担当するのだが、なかなか動いてくれないこともよくある。「没弁法」の一言で片付けられてしまう。すると、私たち営業担当が調整や交渉に全面的に乗り出さなければならない。もはや中国語だけではない、中国流の折衝が必要だった。私が、ビル管理事務所の担当者を接待することは何回もあった。そのお陰でビルの管理部と仲良くなると、後日、ロイターの競合社がアンテナをつけようとすると、無理難題を押し付けて阻止する人間もいた。いまこういうことをやったら、独禁法違反の嫌疑をかけられてしまうが・・・

 そして、めでたく端末の取り付けが完了すると、今度顧客ユーザーのトレーニングやITメンテナンス、すべて中国人スタッフが当たる。それを一々感知しないと、あっという間に顧客から苦情が来る。

 このような挟み撃ちを受けて池山はいくら精神力が強くても、到底耐え切ることは難しい。その辺、私がもう少し彼女に助言や手助けをすれば良かったと、今とても後悔している。

<次回>