私はこうして会社を辞めました(39)―花道の引き際

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(敬称略)

2296298年4月、モルディブでダイビング仲間たちと

 花道の引き際だ。

 97年、私の担当する中国大陸の日系市場は、ロイターのシェアが95%にも達し、当分の間更なる成長が見込まれない。というよりも、欧米企業としては、戦略目標が達成した以上、高い人件費を出し続けて私を中国に残す意味がなくなった。極めて合理的なロジックであった。使い捨てされる惨めな気持ちを、私はまったく持っていなかった。

 もう一つ、看過できないことがある―インターネットの普及。リアルタイム情報を必要としない顧客は、インターネットで情報を集め始め、情報端末がインターネットに主役の座を取って代わられるのは時間の問題だ。最終的にロイター端末は、金融機関のディーリングルームの専用情報ツールという位置に落ち着くだろう。

 だとすれば、中国本土では、上海が金融センターにでもならない限りロイター情報の需要の急増は見込めない。で、金融センターになるために、人民元の流通問題、外銀の規制問題などなどハードルが多すぎる。総合的に考えると、10年以内に、中国本土で私がそれまでやってきたような派手な市場打開のパフォーマンスはもう演出できる余地が皆無に近い。

22962_2モルディブでダイビング

 私は、香港転勤を受け入れた。

 実はそのとき、ロイター香港には、アジア金融危機と日本国内金融機関破たんのしわ寄せがじわじわと及び始めたのだった。

 ロイター香港には、私の前任者・伊野浩二(仮名)というベテラン日系市場マネージャーがいた。洗練された一流の営業の腕で香港の日系市場を創り上げたと言っても過言ではない。それでも、金融危機の津波が時間差をもって少し遅れながらも香港に襲来した。1998年に入ると、ロイター端末は解約の嵐に浴びさせられた。営業部隊が消防隊員と揶揄(やゆ)されるほど、解約を食い止めに奔走した。

 伊野と彼の部下、香港駐在の日本人2名は日本への帰任が決まった。その代わりに、私のところに、香港赴任の正式辞令が届いた。肩書きは、東アジア地域日本法人市場担当マネージャー、管轄範囲は、香港、台湾とフィリピン、プラス中国本土はアドバイザー的な不定期出張。給料は中国本土時代よりややアップしての好待遇だった。それにしても、会社は、香港と中国本土の日本人駐在員3人体制を思い切って1人体制に切り替えてのコスト削減だった。

22962_3ロイター上海事務所にて

 前述の通り、欧米企業のドライな人事制度は、人間を中心に仕事を作るのではなく、特定の仕事、特定のポストに適任者をはめていくものである。当初北京と上海の2人体制を私1人に集約し、今度香港と中国本土合わせての3人体制を、それも私1人に集約した。私は、当初中国本土に派遣されたのは、あくまでも市場打開のためだった。使命を遂行し、目標も達成した今では、もはや私を本土に残す必要がなくなった。人件費の利用価値を最大化するという意味で、合理的で経済学の法則に合致する。

 私は何ら違和感もなく納得している。ロイターはこれだけ合理的な会社で、株主価値をこれだけ意識しているとは、日本企業では考えられないことだ。このようなロイターの企業文化には、私はすでにどっぷり浸かって染まったのだった。

 98年4月、中国本土駐在中の最後の旅、私はモルディブを選んだ。1週間格闘の末、念願のスキューバダイビングの免許を取った。

22962_4ロイター上海事務所にて

 そして、夏、4年間奮闘した中国の地に別れを告げ、私は香港に向けて飛び立った。そのとき、旧啓徳空港はすでに廃港となり、新空港の到着で94年赴任当時のようにスリル満点の「香港アプローチ」を楽しむことはできなくなっていた。

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