私はこうして会社を辞めました(38)―我が世の春は短し

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(敬称略)

2292097年末、ネパール・ヒマラヤの山々を赤く染める神々しい日の出

 1997年、香港が中国に返還された年。ロイターの中国事業の折り返し地点だったのかもしれない。

 私が94年上海に派遣された当時、中国はまだ盛り上がっていなかった。そのとき、中国の日系市場を開拓しようと決めたロイターは、先見の明があった。欧米企業とは、仕事があっての人間であり、そこで池山と私が採用され、中国に送り込まれたわけだ。

 94年から3年かけて努力した結果として、期待されたとおり日系企業市場が順調に成長した。ロイターは中国大陸でダントツの市場シェアを持った。それを考えれば、ロイターの日系市場戦略が見事に成功したと言える。

 私が市場開拓の英雄としてあちこちでチヤホヤされるうちに、すっかり勝利に陶酔し、我が世の春を謳歌し続けた。しかし、世は無常である。97年の冬の到来とともに、変化の寒流が知らずにすでにそこまで来ていたのだった。

22920_297年末、インド旅行中のターバン拝借

 日本の金融機関に少し異変が見られるようになった。その異変がとうとう翌年臨界点に達し、大爆発を起こしたのだった。98年、日本長期信用銀行の破たんを境に、「護送船団」の時代が終わった。長銀上海支店は、私が苦労して取った顧客だった。上海商城の中に広大なオフィスを持つメガバンクにしては、崩壊など到底ありえず、(旧)大蔵省が政治的救済で護送船団を差し出すに違いないと私が読んだ。しかし、私の読みは、見事に外れた。大和銀行ニューヨーク支店の不祥事の暴露や北海道拓殖銀行、山一証券の破たんで、金融界に水面下の変革がすでに本格的に始まった。

 好業績に酔い痴れていた私は物事の本質を見抜く力も予測する力もなかった。やがて、私がしがみついていた栄光の功績は、無情にも歴史となった。

 挟み撃ちにアジア金融危機も発生した。1997年、イギリスから中国に返還され、当時繁栄の頂点にまで登り詰めた香港は金融危機当初、大きな衝撃を受けることはなかった。当時、ロイター香港の業績も堅調だった。

22920_397年当時、上海自宅の書斎にて

 97年末、ロイター上海のクリスマス・パーティーに、珍しい客が現れた。上海赴任当初の私の元上司、シンガポール人のダニエル。東アジア統括総経理として、ロイター香港駐在の栄転を果たした彼は、会社の好業績にも恵まれ、気色が良かった。

 「ハーイ、Tachibana-san、ロング・タイム・ノー・シー・ユー・ラー、ハウ・アー・ユー・アッ?」、相変わらず、「ラー」と「アッ」の語尾を強調するきついシンガポール訛りで話しをかけてくる、「どうですか、調子は。あの~、環境を変えて、香港に来ませんか?」

 「香港にはよく行っていますが、いつもご挨拶ができなくて、すみません」と私が言うと、
 「違う、違う、香港で働いて見ないかと言っているのです」、随分突拍子もないことをダニエルが言う。
 「えっ?」
 「あなたは、中国で大成功しているし、中国国内の日系市場もこれで天井打ちじゃないか。そろそろ自身のキャリアアップも考えたらどうでしょう。香港とか、開かれた金融市場で試練を受けて・・・」

 ダニエルが言っていることは正しかった。当時、中国大陸の日系企業でロイター情報を取ってくれそうな見込み客はほぼ全数契約済みだったし、95%の市場占有率を見ても、むしろ当分の間上昇の余地がまったくないと言って良いだろう。

 この際、心機一転というのも悪い話ではない、私の心が揺れた。

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