<KL>天まさの技術と芸術、若者「下積み不要論」の実証

 天ぷら「天まさ」。――「クアラルンプールの日本料理なら、ここが一番」。某グルメ友人がいう。一番二番というランク付けはなかなか難しいが、とりあえず食べてみないと分からない。

 年を取ってきたせいもあって、私はここ数年B級専門と自称するようになってから、A級を食す機会もめっきり減った。なので、上等な食物を口にしても、若い頃のようにそれを味わう喜びもグルメレポートをずらずらと書き綴る情熱も薄れた。お店の問題でもなんでもない。自分の問題だ。

 「天まさ」はどうですか。結論からいうと、「生きた」天ぷらを食べたいなら、ここへ行くしかない。寿司などの素材系なら、「生きた」感がメイン評価基準になるが、あえて天ぷらを「生きた」と表現するには、ひとえに自分の実感に基づいている。生きているよ、それ。

 思うに、日本料理の中でも、天ぷらはもっとも難しい技術(芸術級の技術)を要する。制作工程からいうと、寿司はある程度の時間的余裕があっても、天ぷらは瞬間の技である。揚げているその数秒間の差で出来栄えも味も香りも変わってくるわけだ。

 素材の具合、衣の具体、油の具合…。これらの変数、個別や全体的変動要因を折り込んで、職人のなかで計算する。そのプログラムの構築は修業や研鑽の結実になる。つまりは数値化、マニュアル化できない技術は、芸術の領域に属する。芸術によって、天ぷらは生き物に変身するのである。

天まさ・岩浅昌恭料理長(左)

 20代の若い岩浅昌恭料理長は、日本国内にいたら、未だに修業させられているに違いない。少なくとも料理長として店を切り盛りする立場にはなかっただろう。日本料理のいわゆる長年の「下積み美談」は、私はいささか信じていない。胡散臭い。

 長い下積みなどは、単に上にいる既得権益層(オジサンたち)が居座り続けるための作り話にすぎない。岩浅氏は生きた実例ではないか。日本を飛び出して大正解だった。思わず彼と友達になってしまった。

 補足するが、料理業界に限らず、日本社会で若者が安い給料でいわゆる下積みをさせられるのは、基本的に年長者の既得権益防衛手段でしかない。年功を歴史的に否定するつもりはない。ただそれは戦後の高度経済成長という特殊な時期の産物であり、時代は大きく本質的に変わった。無能なオジサンたちがさっさと退かない限り、日本社会の衰退は止まらない。

 日本の問題は、少子化ではない。「多老化」だ。既得利益にがんじがらめで役に立たない老人が多すぎるのだ。

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