「やがて私の時代が来る」、マーラーの曲を聴きながら

 時は、マーラーの生誕150年(2010) と没後100年(2011)。世の中はマーラー・ブームが巻き起こっている。

 23年前の中国の若者の間で、マーラーは絶大な人気を誇っていた。作家・辻井喬氏が「現代中国とマーラー」というエッセーでこう指摘する(「北海道新聞」1988年5月20日付夕刊)。

57798_2グスタフ・マーラー

 「(マーラーの)長大な響き、多様な色彩のなかに中国の若者達は新しい寛ぎを覚えているのであろうか。少なくとも近代工業化社会への踏み込みが、5000年の歴史の積み重ねに強い変化を与えはじめていることだけは確実なように思われる。もしかすると、痛切な喪失の感情を伴う変化こそ、進歩と呼ばれるものの実体であるのかもしれない」

 23年後の今日、次世代、いわゆる「80後」や「90後」、ないしこれからの「00後」の中国の若者は、すっかりその「進歩」の受益者となった。しかし、爛熟した近代工業社会と消費社会に耽溺し、行き過ぎた寛ぎで無力感を増す若者も急増中。痛切な喪失を伴う変化で生まれる進歩の実体と睨めっこして、異なる種の空虚な苦痛に包まれてゆく。

 進歩は常に苦痛と道連れ。進歩の先に目指すものがあってこその忍耐だ。しかし、先の先まで、美しくも蜃気楼の世界が広がっている。進歩の意味はどこにあるのか。彷徨いと不安に怯える苦痛は、もはや喪失の苦痛を凌駕する。

 「やがて私の時代が来る」

 マーラーはこう言い残してこの世を去った。彼は蜃気楼の追っかけもしなければ、立ち止まることもなかった。ある意味で自分の少々歪んだ人生に美しい口実を作った、一種の「確信犯」だ。未完に終わったマーラー最後の楽曲「交響曲第10番」に秘められた真実が明かされる、新作映画「マーラー、君に捧げるアダージュ」は1か月前に、日本で封切られた。ぜひ、早く見たい。

 「やがて私の時代が来る」

 次の時代はどんな時代か。今年、マーラーのコンサートにすでに2回も足を運んだ私は、その答えがようやくぼんやりと見えてきたようだ。