● 現実主義の立脚点と「議論からの逃避」~人格攻撃を超えて
私の議論やナラティブは、基本的に3つの要素と1つの立脚点から成り立っている。すなわち、事実・論理・結論(意見や主張)という論証の基本構造に、現実主義という立脚点が加わる。
現実主義の立脚点とは何か。それは、現状認識に基づいた行動の実効性、そしてその結果として得られる効果(利益)の最大化を追求する思考態度である。
この現実主義的アプローチは、なるべく善悪や美醜といった倫理判断を排除し、形容詞や感情語の使用を避けることを特徴とする。あくまで「事実→論理→帰結」という構造を基礎に置き、道徳的な二項対立や印象論を差し挟まず、合理性と可視性をもって問題を捉えるよう心がけている。
しかし、こうした議論の姿勢に慣れていない相手と向き合うと、しばしば拒絶的な反応に遭遇することがある。その反応には、ある種の共通パターンが見られる。
まず最初に発生するのは、「事」次元における論点の転換(すり替え)である。たとえば議題Aについて議論している最中に、突然論点BやCに移り、「そもそもそんな話をしていない」と感じるようなズレが起こる。グレアムの「議論のヒエラルキー」によれば、これは「抗論(Refutation)」を避け、「論調批判(Tone Policing)」へと退避する現象である。ときにはこの過程が省略され、一気に次の段階に移行することもある。
次に現れるのが、「人」次元での転換である。ここで議論の対象は「What(何を言っているか)」から「Who(誰が言っているか)」へと移る。いわゆる人格攻撃(Ad Hominem)である。主張の中身ではなく、発言者の属性や背景、場合によっては外見や所属までを攻撃することで、議論の場から脱出しようとする。
さらに最後の段階として、「世界」次元での切断がある。SNSであればブロック、リアルな関係であれば、いわゆる「ハブる」「村八分」に相当する行為である。これはもはや議論の放棄ではなく、関係そのものの遮断によって自己の安寧を保とうとする防衛反応である。
特に日本社会においては、この「村八分」的行為が社会的制裁として重く機能するため、多くの人は議論の継続よりも関係維持を優先する。議論の回避は、生存本能に根差した合理的行動とも言える。したがって、それを非難すべきではない。
ただ、私は少々異常値に属する人間である。むしろ議論によってこそ事実を明らかにし、対立構造を可視化することに価値を見出す立場である。そのため、こうした回避の反応にも慣れており、それをいちいち個人的には受け止めない。
たとえば、私はこれまで数多くの人格攻撃を受けてきた。「反日だ」「チャイナマンだ」「中国から金をもらっている手先だ」「中国でマルクス主義に洗脳された」等々である。しかし、私はそれに怒りを感じることはない。むしろ行動心理学・社会心理学の実例として観察・蓄積し、企業研修での教材として活用し、売上に転換してきた。それが私の「パラドックス戦略」である。
このような人格攻撃に対しては、反論も容易である。たとえば私はこう返すことができる:
「私は中国から金をもらっていないとは証明できない。しかし、日本企業から研修代をいただいていることは請求書と振込記録という“事実”で証明できる。それでも私が反日なら、私に金を払う在中日系企業も反日であり、彼らの製品を買う日本人消費者も反日ということになりますか?」
このように、人格攻撃は知的水準が低く、論破は容易である。ただし、その出現のタイミングと内容は、集団心理や組織文化を読み解く重要な手がかりにもなる。よって、記録し、分析し、教材化するに値する。
私は、政治とは社会や国を変えるものではなく、自分自身を変えるものであると考える。議論を避け、感情に流され、対立の構造から目をそらすことは、自分の思考を停止させることであり、現実に対して無力になることである。
だからこそ、現状認識、行動の実効性、そして効果の最大化という「現実主義」の立脚点を手放してはならない。その上に、事実・論理・結論が積み重ねられて初めて、「語るに値する言葉」となるのである。

● 問いなき知性と実学なき教育
米国での一件。トランプ政権がハーバード大学への助成金を停止する方針を打ち出した際、レビット大統領報道官は「LGBTQを学んだ人より、電気工や配管工のほうがよほど社会に必要だ」と発言した。トランプ氏自身も、大学よりも職業訓練校に資金を回すべきだと述べ、「実学重視」の姿勢を明確にした。
確かに、社会の現場で今、切実に求められているのは、高尚な理念を語るハーバード卒のエリートではなく、エアコンを修理できる技能士なのかもしれない。
この半年ほど、教育事業に関わってきた。その中でつくづく思うのは、大学で教えていることの大半は、いまやAIやインターネットで簡単に手に入るという現実である。必要なのは知識そのものではなく、「問いを立てる力」なのだが、驚くべきことに、それを教えている学校はほとんど存在しない。というより、教える側の多くの教授たちでさえ、「問いを立てる」ことができない。だから教えようがないのである。
それならば、「問いを立てる」ことさえできれば、生成AIと二人三脚で学んでいくほうが、高い学費を払って講義を受けるよりも、はるかに実効的ではないか。実際、いまのAIはすでに人間を凌駕する知識と整理力を持っている。しかし唯一できないのが、「問いを立てる」こと。
だからこそ、AIに取って代わられない人間になるには、この「問いを立てる力」こそが決定的に重要になる。しかし――と、最後に冷めた現実がやってくる。それができる人間は、全体のわずか2%、せいぜい3%に過ぎない。教育の本質とは何か。結局、それを問える人間だけが教育を超えていくのだ。
● 中国人留学生に特別奨学金を支給?
「中国人留学生に特別に1000万円が支給されている」などという浅薄な言説がネット上で無批判に流通し、拍手喝采を浴びている。この現状こそ、日本社会の知的劣化を物語っている。これは制度の誤解ではない。誤解以前に、「制度というものはどう設計されるか」「実力主義とは何か」という思考の初歩が欠如している。もはや「考える」という行為そのものが日本社会から失われている。
現実は明快である――。
支援が行われているのは、選抜を勝ち抜いた優秀な学生であり、その中に中国人が多いのは、彼らが相対的に高い競争力を持ち、実力で席を取っているからである。これを「優遇」だと思い込む日本人、それはただの「甘え」である。
数値は残酷だ。日本の多くの大学院、特に理工系博士課程では、すでに外国人が多数派となり、その多くが中国人である。なぜか。日本人が行かないからである。学ぶ意欲も、研究への覚悟も、生活基盤を捨てて挑戦する胆力もない。その結果として、学術の土台を他国に委ねている。この実態に直面してもなお、「中国人ばかりずるい」と呻く者は、もはや愚かというより哀れである。
制度に文句を言う前に、なぜ自国の若者が研究現場から逃げ出しているのかを問うべきである。なぜ博士課程進学率が低く、なぜ日本人学生の多くが「失敗したくない」「コスパが悪い」として、安全地帯に籠もっているのか。そうした国民性と構造的退化を棚に上げ、ただ隣国の台頭を罵る姿は、知的敗北者の典型である。
そもそも「外国人に支給されている税金がもったいない」と叫ぶ前に、その税金を使って何が育ち、何が日本に返ってきているのかを見ようとする視点がない。事実の解釈を避け、感情の共鳴だけで正義を語る姿勢こそ、ポピュリズム国家の末期症状である。
科学や教育というのは、国家の存亡に関わる戦略資源である。そこにおいて人材を確保できなければ、国そのものが沈む。中国はそれを理解し、徹底的に国家戦略として人材を海外に送り、獲得し、活かしてきた。日本は何をしたか。制度設計を怠り、努力を避け、外から来た優秀な者に石を投げているだけではないか。
このような知的衰退を前にして、「中国に追い抜かれたかどうか」などという問いはもはや無意味である。追い抜かれたのではない。自ら止まり、眠り、退化したのである。現代日本の知的環境に巣くうこの甘えと怠慢を直視せずして、未来など語る資格はない。
「在日が日本の政治を牛耳っている」「帰化人が裏で操っている」──こうした言説が平然と口にされるたびに、私はこう問い返したくなる。では、総人口の98%以上を占める「純粋日本人」とは、いかなる無能集団なのか?と。
帰化人など「非純日本人」の人口は、日本全体の1〜2%にすぎない。仮にその1〜2%が日本の政界・財界・メディア・教育界を牛耳っているのだとすれば、支配されている残りの大多数の責任は一体どこにあるのか。それは支配ではなく、無抵抗の委譲に過ぎないのではないか。
現実には、そうした言説の多くは事実に基づいていない。だが仮に、極端な前提を一時的に受け入れたとしても、それは「少数精鋭の他者に日本社会の主導権を渡してしまった」ことの自己告白でしかない。しかも、それを自分ではなく「彼らが悪い」と他責的に叫ぶその姿勢こそ、精神的敗北を証明している。
この構図は、学術分野で「中国人留学生ばかり優遇されている」と騒ぐのと同じである。学び、戦い、勝ち取る努力を放棄した者が、その席を得た他者を妬む。それを制度の不公平にすり替えるのは、正義を装った劣等感の告白に他ならない。
「牛耳られている」という表現の陰には、自分は“純粋で無垢”だが、“狡猾な他者”によって騙され、奪われ、支配されたという構図がある。これは責任回避の物語であり、被害者としての自己演出に酔いしれるポピュリズムの典型例である。
真に知性と誇りを持つならば、まず自らの怠慢を省みるべきである。なぜ政治に無関心であり続けたのか。なぜ声を上げず、なぜ投票を放棄し、なぜ公的言説空間を他者に委ねたのか。それすら問わずに、「あいつらのせいだ」と叫ぶのは、愚かさを上塗りする行為である。
仮に本当に誰かに支配されていると感じるならば、それは主権者としての自分自身の堕落の結果である。少数の他者にすら勝てない大多数の凡庸さを直視することなく、陰謀論に逃げ込むのは、知の敗北であり、誇りの放棄である。
● 偶然の出会いと白熱の議論
昨晩(6月3日)、クアラルンプール市内の日本料理店で家族と食事をしていたところ、隣席に居合わせたマレーシア華人の経営者一家と偶然にも会話が始まった。穏やかな酒席は、やがて経済、政治、国際情勢、そして教育論へと話題を拡げ、終盤には子どもの教育観をめぐって一時的に議論が白熱する場面もあった。
議論が対立的になるほど、互いの価値観の深層があらわになり、決して生ぬるい共感では到達できない地点に話が及んでいた。やがて相手一家が先に店を出た後、私たちも会計を済ませようとすると、店員から「お会計はお隣様が全額お支払いになりました」と告げられた。総額にして約二万円弱。驚きとともに、先ほど交わした電話番号へ礼を伝えると、「今日は本当に勉強になった。学費にしては安すぎる。こちらこそ、ありがとう」という返答が返ってきた。
日本でこのような展開は、まず考えられない。たとえその場がどれほど有意義な議論であっても、「議論の末にご馳走を奢られる」という発想は希薄である。むしろ、議論は不快の種、意見の違いは距離の始まりと捉えられがちである。沈黙と同調が礼儀となる社会において、異論とはしばしば「場を壊すもの」として警戒される。
しかしマレーシア、特に中華系社会では、議論とは「贈与される知」であり、それを交わすことは「対等な精神の闘い」として尊ばれる。異なる意見をぶつけ合った後に、感謝と敬意をこめて一席を贈る。この行為に、経済的余裕以上の文化的成熟が感じられる。
この国には、民族も宗教も言語も価値観も異なる人々が混在している。違いに満ちた社会において、意見の対立を「関係の終わり」ではなく、「関係の始まり」として取り扱うための文化的知恵が、日常の中に染み込んでいるのかもしれない。
日本人がしばしば見失いがちな、「知的対話に対する敬意」と「異なる他者と交わる覚悟」。それを、私は偶然の一夜の出来事の中で、思いがけず教えられたのである。




