真正の保守とは何か、「進歩」幻想と符号的保守を超えて

● 「改革」の連鎖と文明における後任者病

 現代の政治・社会において、後任者が前任者の実績を否定し、自らの手柄を強調する「改⾰」の構造が横行している。この構造は人類文明全体にも通底し、「現代人が近代人を見下し、近代人が中世人を侮る」といった階層的な歴史意識の形をとる。

 私たちは「進歩」や「革新」という言葉に酔い、過去を常に「乗り越えるべき劣等なもの」と見なすが、果たしてそれは正しい態度なのか。古代や中世に蓄積された宗教的象徴、制度、共同体の知恵には、現代社会が失った普遍的洞察が宿る。ルネサンスが古代に回帰して未来を見出したように、温故知新は教養ではなく生存戦略である。

● 見失われた「人間本性」への洞察

 どれだけテクノロジーが進歩し、制度が洗練されても、人間の本性――欲望、恐怖、嫉妬、支配欲、承認欲求、集団帰属といった感情の根源――は不変である。

 進歩史観に溺れる現代人は、この「変わらぬ本性」への認識を欠いたまま、制度や技術だけで社会を最適化しようとする。その結果、人間の殻(外見)ばかりが変化し、内面(本性)は無反省のまま放置される。本性を見つめない進歩は、単なる装飾の反復であり、崩壊の予兆となる。今こそルネサンスのような“人間再発見”の精神が必要なのだ。

● 保守思想の本流とは――制度と文化の「耐久設計」

 本来の保守とは、単に古いものを守ることではない。変化に耐える制度・文化を、変わらぬ人間性を前提に設計する知的態度である。現在の「自称保守層」の多くは、伝統や文化を感情的に崇拝し、自らの利益を守る手段として「保守」を用いている。さらに、新自由主義やポピュリズムに迎合し、「市場」や「国家」への盲信に陥っている。

 これは真正の保守ではない。真正保守とは、制度と人間の距離を冷静に見つめ、その持続性と耐久性を思考することに他ならない。

● 「符号的保守」の構造――承認共同体としての擬似保守

 現代日本の多くの保守層は、「国旗」「皇室」「家族」「伝統」などの保守的記号を共有することで相互承認を得る共同体を形成している。これは思想ではなく、安心共同体である。

 彼らにとって「保守」は、思考の営みではなく、所属と承認のための儀式である。そのため、「思考する保守」は異物とされ、リベラルにも符号的保守にも排除される孤独な存在となる。

 思考的保守は、同調を拒み、空気を読まず、制度と文化を知性で捉え直す存在である。真に保守的であるとは、群れず、媚びず、迎合せず、孤独を引き受ける知的態度なのだ。

● 貧困層が保守に惹かれる理由――経済合理性を超える心理的帰属

 興味深い現象として、日本では経済的に不利な層が保守的言説に傾く傾向がある。これは思想的矛盾ではなく、心理的・文化的ロジックに基づいている。

 ○ 相対的地位の防衛:外国人やリベラルを蔑むことで、自らの尊厳を心理的に保つ。
 ○ 安定への依存:不安定な現実から逃れるため、国家や家族といった象徴に同一化する。
 ○ 承認の共同体:象徴語(伝統、愛国、自衛、家族)を共有し、共同体的安心を得る。

 この構造において、「保守」は理念ではなく、慰めと承認の装置となる。そして、こうした人々を救えなかった責任は、上から目線のリベラルにもある。

● 思考する保守こそ、未来への責任である

 真正の保守とは、制度や文化を、変わらぬ人間性という現実に根差して設計する知的態度である。それは過去を崇拝する懐古趣味ではなく、未来を支える構造をつくるための思索である。

 「群れる保守」は腐敗する。孤独を恐れず、思考する保守こそが、文明を支える本流なのだ。

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