いわゆる保守の中に「トランプ支持だが、反プーチ」という人(以下、「彼たち」と呼ぼう)が少なからずいる――。
「彼たち」は、トランプを「独裁者」という極悪として、一斉に叩く西側メディアを批判・罵倒していたが、今度は一転して、プーチンを「侵略者」という極悪として、一斉に叩く同じ西側メディアを擁護し、それに便乗して集団リンチの陣営に加わった。
「彼たち」が愛憎不定としてきた西側メディアは何も変わっていない。西側メディアは、国際金融資本や民主主義を標榜しながらの政治家と結託し、トランプの真実も、プーチンの真実も隠蔽し、プロパガンダに徹した。
「彼たち」自身も変わっていない。転向かと思われるほどだったが、何も変わっていない。転向ではない。彼たちは実は何も「方向」をもっていなかったのだ。「彼たち」の多くは社会の底辺で苦しみ、弱者投影をもって思考・行動していただけだ。いってみれば、「偽右真弱」だ。(弱者=物心のどちらか、あるいは両方の弱者)
「彼たち」は、弱者を助けてくれるトランプを支持し、弱者いじめとされるプーチンに反感を抱いた。それだけだった。「彼たち」にとって真実(理)は重要ではない。ガス抜きという感情(情)の調節弁がはるかに重要だった。「彼たち」はその調節弁を求めていただけだ(もちろん弱者のなかには理性的な賢者もいる)。
「彼たち」は、トランプもプーチンも戦ってきた敵が同一だったこと、そして西側メディアがこれらの敵と一味だったことに気づいていない、あるいは気づいても見ようとしない。自分の感情の従僕や奴隷になり下がったのである。
政治は「理」でなく、「情」をうまく使いこなすことがはるかに重要だ。民主主義の為政者は実は、大衆や庶民を見下している。衆愚政治の為政者は、決して愚ではないからだ。