階級社会の真実(10)~ガス抜き権利、民主主義国家の巧妙な仕組み

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● 下層階級の権利が拡充中?

 今の時代でも、階級が固まっているとは言えない。本人の頑張り方や諸条件・結果次第で、下層階級が上層階級に移動することは不可能ではない。しかし、いざ上層階級入りを果たすと、様子が一変する。上層階級は‎一丸となって、下層階級に対する搾取や既得権益の死守、酷いところは腐敗不正など、状況は昔とさほど変わらない。いや、もっと酷いかもしれない。それはなぜだろうか?

 上層階級は、大きな権利だけを手に入れても、それに相応する大きな義務を果たさない、果たそうとしない。一方、下層階級のほうはどうだろうか。とりわけ民主主義制度下の大衆は、次から次へと権利の主張が強くなり、様々な権利が登場するようになった。しかし、誰もが義務などを口にしない。一方通行になっている。

 政治家・為政者などの上層階級は、下層階級の権利を制限するどころか、逆に彼らの権利擁護、権利拡充を声高に唱えている。権利の対極にある義務、「国民の果たすべき義務」などを口にする政治家は、1人も見ない。なぜなら、それを言ったら、票が集まらないし、たちまち上から目線と非難され、叩き潰され、ポストから引きずり下ろされるのがオチだからだ。下層階級の強みは、数による力、市民裁判の力だ。

 このように、上層から下層まで、みんな権利だけで、義務を軽視、無視、置き去りにする。要するに、上下総権利の無責任社会の出来上がり。

 しかし、下層階級の権利が果たして本当に守られ、拡充しているのだろうか。それがどんな権利だろうか。とりわけ最近のいわゆる権利は、いろいろあっても、基本的に、「差別されない権利」という一本である。上層階級は、下層階級同士間の差別意識と闘争欲を意図的に掻き立て、分断を図り、本来ならば上層階級に向けられたはずの反抗を下層階級内部の対立や戦いに転化することに成功したのである。

 これは、善も悪もない。単なる統治者・支配者の「帝王学」にすぎない。上層階級は、下層階級の心理や行動パターンをよく理解したうえで、作り上げた「仕組み」である。もちろん、下層階級でこれに気付く者はほとんどいない。

● 下層階級の内部闘争と「ガス抜きの権利」

 ふたを開けてみると、下層階級が実質的に手に入れた権利は皆無に近い。にもかかわらず、戦いに明け暮れている。マルクス主義といえば、「階級闘争」理論が伝家の宝刀だった。マルクス時代の社会主義者は、分断された無産階級(プロレタリアート)と資本家階級を戦わせ、政権を奪取した。

 社会主義者が政権の座に就くと、階級闘争は終結したはずだが、それでは困る。政権を維持し、ごく少数である上層・特権階級の権益を守るには、大多数の下層階級の分断が必要不可欠だ。

 そこで、毛沢東は、矛盾(対立)を「敵我矛盾」「人民内部矛盾」に2分類した理論を打ち出し、いわく「階級闘争を忘れるな」と、人民内部の対立・敵対集団を作り出した。文化大革命はついに、「人民内部矛盾」を「敵我矛盾」に転化し、下層階級である人民内部の戦いをエスカレートさせることに成功した。

 皮肉なことに、独裁専制政権が作った「成功事例」はなんと、民主主義国家に転用されても、見事に成功する。それは、統治・支配の原理・法則は、独裁専制であれ、民主主義であれ、政治体制に関係なく共通しているからである。根底にある人間の本質は変わらない。嫉妬、被害者意識から不満が生まれ、それが分断につながり、闘争の燃料となる。それを統治者・上層階級がうまく利用するわけだ。

 抑圧され、不利益を蒙り、不幸を感じる下層階級の日常的な愚痴や罵り、いわゆる「ガス抜き」が闘争の燃料になるため、「ガス抜きの権利」だけは保障されている。民主主義社会においては、「言論の自由」という美名があるだけに、都合が良い。

 「言論の自由」については、民主主義が独裁専制より、はるかに寛容である。ただ「思考の自由」(思想の自由ではない)を大衆・下層階級から剥奪するという点では、民主も専制も共通している。そこで、「思考の自由」なき「言論の自由」のほうがむしろ有害性が高いときもあるという事実だけは、看過できない。

 民主主義国家では、下層階級の無思考的な言論が垂れ流しになっている。それが「民意」と捉えられ、濫用された時点で、民主主義国家の統治品質が格段に低下する。しかし、これは上層階級の搾取・権益維持に基本的にマイナス影響を及ぼさない。場合によっては、プラス影響にさえなり得る。実によく設計された仕組みである。

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