階級社会の真実(9)~「階級」は悪なのか?貴族の義務とは?

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● 「階級」は悪なのか?

 「階級」という概念に日本人が触れたくないのは、「人はみんな平等で、階級があってはならない」と教えられてきたからだ。戦争はあってならない。しかし一方、戦争は消えない。これと同じように、階級があってはならないが、階級は存在し続けている。

 あってならないものは、「悪」であり、要するに、階級は「悪」なのだ。では、歴史的に階級が堂々と存在していた。それはなぜか。階級はなぜ必要だったのか。こういった問いには、現代教育は、単純に、歴史は進化していて、今が昔よりも「善」になっているからだという答えを、大衆に教え込んでいる。

 洗脳だ。歴史を、後付的な善悪判断だけで乱暴に片づけている。そんな簡単なものではない。その時、その場所、その当事者、その諸条件があっての歴史であって、後付的な善悪判断よりも、「当時の目線」で見つめる必要があろう。現代の支配者階級が自己正当化するには、過去を「悪」として片づけてしまうのがいちばん手っ取り早いし、大衆にも分かりやすいからだ。

 産業革命以降の科学技術は確かに進歩している。だからと言って、短絡的に「歴史が進歩している」と置き換えてはならない。歴史は進歩しない。歴史は単に、淡々とその時、その場所、その当事者、その諸条件下にあった出来事を記録しているだけのものだ。「歴史を創る」とは、現代人の傲慢にすぎない。

 世の中は、単純な白黒でなく、グラデーションである。白黒や善悪の二元論は、洗脳の道具である。繰り返すが、歴史は、価値判断ではなく、事実判断なのだ。

● 貴族の義務とは

 欧米社会では、「ノブレス・オブリージュ(noblesse oblige)」という概念が存在する。「高貴さは義務を強制する」を意味し、一般的に財産、権力、社会的地位の保持には義務が伴うことを指す。ただし、この種の義務は法律上のものではなく、道徳上のものである。つまり法的拘束力がないわけだ。

 そもそも、法的拘束力に依存した時点で、「高貴さ」が弱化し、消滅する。富の再配分はどんな社会にも必要だ。租税という法定義務はツールとして一定の効用を有しているが、法的拘束力がもたれる以上、受動的義務に成り下がったことは否めない。富の再配分は上層階級の能動的義務として寄付や援助などの形になれば、主体性が一気に増強する。それに付随する高貴さも体現される。

 とはいっても、法的強制力がない故に、「ノブレス・オブリージュ」を履行しない者も出てくるだろう。そこで、制裁措置が必要になってくる。下層救済のできない上層階級の者は、それのできる上層に軽蔑され、上層同士に村八分にされる。要するに「高貴さ」を失ったことによって、所属階級から駆逐されるということだ。

 分かりやすくいえば、権利と義務は常に対等とうい原理に基づき、大きな権利を持つ者(貴族・上流上層階級)には、大きな義務が伴う。これに対して、権利の少ない者(平民・下層階級)は、果たすべき義務も少ない。非常に合理的な仕組みだった。

 歴史上のこうした階級制度では、階級が固定してしまい、下層階級はなかなか上層階級入りすることが難しいという問題があった。下層階級にも優秀な人材がいて、彼らに出世の道が閉ざされてしまうのではないか。先人たちもいろいろ苦労して問題解決に当たった。

 中国の科挙制度はその一例。どんな平民の子でも試験に合格さえすれば、官僚になれ、上層階級入りし、場合によって中央政府の閣僚まで上り詰めることができる。そんな制度は別に何も珍しくない。今の時代でも、貧しい家庭出身の子は、頑張って名門校に入り、優秀な成績で卒業すれば、エリート・上層階級入りの道が開かれる。昔も今も、基本的に同じ仕組みである。

 しかし、不思議なことがある。歴史が進歩するというが、では今のエリート・上層階級のどこか進歩したのだろうか。表向きに「階級」の明示がしなくなるだけで、下層階級に対する搾取や既得権益の死守ないし腐敗不正など、昔とさほど変わらない。いや、もっと酷いかもしれない。それはなぜだろうか?

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