<雑論>米中の戦略 / 「マテリアリズム」の誤解 / 科学技術の進歩と思想の断絶 / 政治家批判をしない理由

● 米中の戦略

 中国には明確な対米戦略があるのに、アメリカには対中戦略がない。それが米中の本質的な差である。

 中国の戦略はシンプルだ。まずは「一帯一路」で世界の物流と経済を握る。次に「台湾統一」で核心的利益を確保し、最後は「太平洋を米中で分割管理する」という新秩序の樹立を狙う。中国は、百年単位で戦っている。アメリカは、選挙を気にして四年単位で動いている。中国は、国家戦略。アメリカは、選挙戦術。

 アメリカは、戦術で中国を止められない。TikTokを禁止しても、一帯一路は止まらない。半導体を封鎖しても、中国の内燃は止まらない。今度留学生を追い出したら、中国は人材が潤沢に増えるだけだ。

 「民主主義 vs 独裁権威」の戦いは単なる虚像。アメリカは戦う胆力も知力もない。そして中国は、それを見抜いている。アメリカが迷っている間に、中国は道を作り、港を押さえ、資源を確保する。気づけば世界のあちこちに、中国の「静かな覇権」が根を張っている。
 
 結論は明快だ。中国は戦っている。アメリカは反応している。このままでは、勝者が誰になるかは、時間の問題である。

●「マテリアリズム」の誤解

 「マテリアリズム」という言葉には、2つの全く異なる和訳がある――「唯物論」と「物質主義」である。多くの日本人はマルクスの「唯物論」に違和感を覚える一方で、アメリカ的「物質主義」にはそれほど反感を抱かない。私は、その逆である。

 マルクスの唯物論は、「質」に根ざしたマテリアリズムである。ここで言う「物質」とは、単なる視覚的対象ではなく、人間の生存に不可欠な生産条件や社会構造そのものであり、下部構造としての経済が上部構造たる思想や文化を規定するという意味を持つ。人間が社会とどのように関わり、生産や労働を通じて自己をいかに規定するかという質的な問いが核心にある。

 これに対し、アメリカ的物質主義は「量」を基軸としたマテリアリズムである。物質は数えられ、所有と消費の量によって価値が判断される。この思想では、所有そのものが最終目的化され、欲望と快楽の充足が幸福の指標とされる。マルクスの唯物論とは、ほぼ正反対の方向性を持つといってよい。

 ゆえに、マルクスの唯物論が社会構造に対する批判と解放の可能性を含んだ高次の哲学的視座を有しているのに対し、アメリカ的物質主義は、スピリチュアルさえも市場に取り込む低次の消費主義へと堕している。前者が物を媒介として人間の解放と関係性の本質を問い直す思想であるのに対し、後者は物を目的化し、人間存在の意味を空洞化させる思想に過ぎない。

 そもそも、アメリカ人は哲学を忌避し、拝金主義的な超消費社会を理想形として追い求めているのである。

● 科学技術の進歩と思想の断絶

 科学技術は、先人の成果を踏み石として積み上げ式に発展してきた。しかしながら、人間の本性そのものはほとんど変化せず、知性の質的向上も限定的である。それにもかかわらず、人間はしばしばその知的限界を顧みることなく、自らの判断力や思考力を過剰に評価しがちである。

 現代において、この傾向はテクノロジーの急速な進展によってさらに助長されており、自己過信が構造化された文明的傲慢へと転化しつつある。科学は「巨人の肩の上」に立つ体系的な知の継承を前提としているが、哲学や倫理、つまり「人間とは何か」「何が善か」といった根本的問いに関しては、継承の意識が著しく希薄である。

 技術においては先人を参照するが、思想においては先人を無視するという非対称が存在する。この断絶は、技術が人間性を支えるはずの土台から切り離され、自走し始めるという危機を生んでいる。技術的には可能であることが、倫理的・哲学的に妥当であるとは限らない。だがその区別が曖昧となり、ツールが目的化され、人間自身が手段化・数値化されていく現象が現代社会で進行している。

 これは、ハイデッガーが警鐘を鳴らした「技術の本質」の暴走に他ならない。人間は、自らが作り出した技術を用いて世界を支配しようとする一方で、自己の限界や歴史的文脈からの逸脱に無自覚である。その結果、「意味」の空洞化が進み、何のために生き、何をなすべきかという根源的問いが後景に退きつつある。

 哲学なき技術の時代とは、選択肢が増えたにもかかわらず、選ぶ意味を喪失した時代にほかならない。このようにして、先人の築いた土俵に立つことなく、空中に塔を建てようとする人間の傲慢は、すでにツケを回収され始めている。

 文明の進歩とは、単なる機能の進化ではなく、価値の継承と更新によって初めて成り立つものである。哲学を失った技術の果てに待つのは、進歩の名を借りた退行、いや退化である。

● 政治家批判をしない理由

 お気づきの方もいるかもしれないが、私は日本の政治家を基本的に批判しない。いや、正確に言えば、批判するだけ無駄だと達観している。彼らは皆、極めて合理的に行動しているからだ。

 まず政治家になるには、選挙という名のギャンブルに挑まねばならない。数千万、場合によっては数億円単位の資金がかかる。選挙事務所、スタッフ、ポスター、街宣車、地元対策費……要するに、初期投資が莫大なのだ。にもかかわらず、その見返りがなければ誰が立候補などするだろうか。

 彼らは「投資」に見合った「回収」を図る。当然の経済的行動である。そこに非難の余地などない。しかもこの回収は合法的に行われる。公共事業の誘導、補助金の再配分、人事への影響力、業界団体との蜜月。すべて「制度の内側」で可能な、巧妙なキャッシュバック機構がある。つまり、政治家とは“投資に対する最適利回り”を追求するファンドマネージャーのような存在である。

 世襲もまた然り。父や祖父が莫大な投資と人脈、票田を築いたならば、それを子が引き継ぐのは自然である。誰がゼロから地盤を築こうとするのか。企業が後継者に事業を譲るのと何ら変わらない。むしろ地盤相続は政治の合理化である。政治に倫理を持ち込むよりも、まず経済を理解するべきだ。

 では、なぜ政治家に怒りが向けられるのか。答えは簡単だ。大衆が彼らに「期待」しているからである。「国民のために働け」「清廉潔白であれ」と。滑稽なまでの幻想だ。

 だが、幻想を抱く者こそが愚かなのであって、幻想を利用する者を責めるのは筋違いである。詐欺の加害者より、騙される側の心理構造を問うべきなのと同じだ。

 つまり、政治家を批判するより、自分たちがなぜ彼らに期待してしまうのか、その幻想の根源を自問すべきなのである。政治は経済に勝てない。むしろ経済の道具である――その事実を理解しない限り、「政治の腐敗」などという言葉は、ただのナイーブな泣き言にすぎない。

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