● 孤独という境地
孤独とは、他者から離れることではなく、自己へと還ること
中国語における「独处(ドゥーツゥー」は、きわめて中立的な語感を持つ表現である。その字義は「独りで居ること」にすぎず、感情的な評価は伴わない。この語は、道家や禅といった静寂を理念とする哲学を背景にもち、「自分と向き合う時間」として、むしろ肯定的に捉えられる場面も少なくない。
「独处を好む」という発言は、「静けさに身を置きたい」「頭を整理したい」といった主体的な選択の表明であり、社会的な孤立や寂しさとは切り離されている。
これに対し、日本語の「孤独」という語には、物理的状態と精神的状態の双方が重ねられ、明確にネガティブな含意を帯びる傾向がある。「孤独死」「孤立」「寂しい」といった語彙群に見られるように、日本社会では「独りであること」がしばしば不安や劣位の象徴とされる。
この文化的傾向の背景には、「和をもって貴しとなす」という集団主義的な感性が色濃く作用している。集団に属することが当たり前とされる世界では、そこから離脱した者は「はぐれ者」や「変わり者」として認識されやすく、「孤独」は否定的に評価されやすいのである。
しかしながら、哲学的文脈においては、孤独はしばしば積極的な価値として捉え直される。
ソクラテスは自らの無知を認め、真理への道を「内なる対話」に見出した。デカルトはすべてを疑い尽くした果てに、「我思う、故に我あり」という孤独な自我を確実性の根拠とした。キルケゴールは「群衆」に迎合することを拒み、「神の前に立つ単独者」としての存在を称揚した。ハイデガーは「死への存在」という本質的な孤独において、人間が自己の真正性に目覚めると説いた。ニーチェに至っては、孤独とは「超人」が創造的価値を生み出すための必然的条件であり、大衆と距離を置くことそのものが精神の強度の証明であると喝破した。
現代において、孤独は再び注目を集めている。SNSによる常時接続、ノンストップなコミュニケーション、誰かと「つながっていなければならない」という強迫観念は、人間から「独处」の力を奪い、思索の余白を浸食している。
他者と常につながることは、同時に他者の評価に常に晒されることであり、疲弊の温床でもある。その意味で、現代人にとっての孤独とは、逃避ではなく「回復」であり、内なる宇宙と向き合うための沈黙の選択でもある。
孤独とは、世界からの撤退ではない。孤独とは、自己への回帰である。それは、他者の期待から自分を解放し、思考と想像の純度を取り戻す営みである。孤独を恐れるのではなく、むしろ自ら進んで引き受けること。そこからしか、真の自由と創造は生まれない。

● 「やばい人ですね」と言われて
先日、日本人のA氏ご夫妻とうちの夫婦で、家族ぐるみの食事会を開いた。和やかで率直な雰囲気の中、A氏の奥様がふと、こんな話をしてくれた。
「実はこの前、主人が家に帰ってきてね、『最近すごく志も行動パターンも似ている人と知り合った。立花さんという方』って言ったんです。それを聞いた私は、すぐに『あぁ、じゃあ、あなたと同じやばい人ですね』って答えたんですよ」
私はその場で思わず笑ったが、内心では深く嬉しかった。その一言には、冗談と皮肉、そして何よりも的確な観察眼が込められていた。「やばい人」という言葉は、表面的には扱いにくい人や一風変わった人へのラベルである。しかし、ある種の文脈においてそれは、最上級の賛辞になり得る。
常識に収まらず、自らの信念をもって行動する者。世間から浮いても、正しいと思う道をためらわず進む者。そのような人間を、親しみと畏敬を込めて「やばい」と呼ぶことがある。その言葉が、家族の会話のなかで自然に、しかも肯定的なニュアンスで語られていたという事実。しかも私の知らぬところで、そう評価されていたという偶然。それは、他者の内面との静かな共鳴を感じさせるものであった。
私は、自分が「やばい人ですね」と言われることを、誇りとして受け止めたい。信念を持って生きるということの孤独と引き換えに、ほんの一瞬でもこうした共振が生まれるなら、それで十分だと思えた夜であった。
● ずけずけものを言う
私は、ずけずけものを言う。実は誰もが、ずけずけものを感じ、考えている。ただ、それを口に出さないだけだ。時には、真逆のことを言わなければならない場面もある。それは、社会的不利を避け、諸種の利益を得るために人が演じるという行為に帰結する。人は、演技者なのだ。だからこそ、こんな問いが生じるーー「立花さん、あなたは自分の利益を無視して、ずけずけものを言うのですか?」と。
私の答えは「NO」である。ずけずけものを言うからこそ、利益がやってくることもあるのだ。ただし、それは大衆市場ではなく、ニッチな小衆市場に限られる。二八法則で言えば、私は「二」の側にいる。顧客のひとりはこう言う。「耳が痛いけど、立花さんは常に本当のことを言ってくれるから、信用する」と。信用とは、真実を語る覚悟の上に成立するものである。
ずけずけ言うことの最大の懸念は、「間違ったことを言ったらどうするか」にある。しかしそれは、訂正し、謝罪すれば済む話だ。演じることを断念した以上、過ちを認めることなど全く負担にならない。私にとって、未熟だった過去の自分を批判することもまた、当然の営みである。
「立花さんは、以前猛烈な中国批判派でしたが、ここ数年変わったのはなぜですか」と尋ねられることがある。時代が変われば、自分も変わる。変化とは、脱皮、成熟、そして進化である。だから私は、過去の自分をずけずけと批判し、修正し、アップデートしていく。それが当然であり、自然である。真実の言葉とは、変わりゆく現実の中で更新され続ける態度そのものなのだ。




