「政冷経寒」は必然的帰結、中国と西側価値観の乖離

 日米をはじめとする西側先進諸国と対照的に、中国の対緬(ミャンマー)投資が急減している(6月5日付ウォールストリートジャーナル紙報道)。先週発表されたばかりの中国移動のミャンマー通信事業免許入札断念もまさに中国勢衰退のシグナルである。

 「西側諸国」という称呼は、米ソ冷戦終結後にもはや死語になりつつあるが、私は復活したほうがいいと思う。冷戦時代の「西側」とは、アメリカを中心とする資本主義陣営に属した国々のことを指していたが、いまは世界的規模での価値観分類に転用できる。

 何も私が勝手に提唱しているわけではない。「西側諸国のいわゆる民主主義などは、中国の国情に合わない」と明言し、イデオロギーの部分で「西側」と一線を画しているのは中国の指導部である。

 マルクス主義におけるイデオロギーとは、単なる観念そのものにとどまらず、生産様式などの社会的な下部構造との関係性においてとらえられる上部構造としての観念を指している。明らかにイデオロギーと経済活動の関連性が論証されているし、また今日の世界においてその関連性を実証的に考察することができるのである。中緬間の「経冷」はまさにその表れではないだろうか。

 そこから延長線上で考えると、日中間にあった「政冷経熱」はあくまでも一時的に、長い歴史の流れの中でも一瞬たる現象に過ぎず、その本来あるべき姿である「政冷経寒」に必然的な帰結として、いまは向かっているのではないだろうか。

 マルクスが説いたイデオロギーは、プロレタリアートとブルジョワジーの階級性(における対立)に基づくものだが、現代世界では国家価値観のレベルにも見事に通用する。いや、よく見ると国家政治を操る当局者の階級性は鮮やかな色を帯びているのではないか。その意味でいえばマルクスの理論はそのまま今でも生きているのである。ただ中国の場合、もはやプロレタリアートは名ばかりで、無産階級でも何でもなく、まったく別の形態のものに変質しているのである。その点については、マルクスが生きていたら、幻滅していただろう。

 ミャンマーの国家価値観は、明らかに西側に傾いてきた。チャイナ・マネーでモノを言わせる姿勢は通用しなくなり、ソフトパワーを軽視する中国にツケが回ってきた。さらにいわゆるソフトパワーの中身をみると、そのほとんどの成分が西側的、普遍的価値観で固まっていることが分かる。

 安倍首相が提唱している「価値観外交」は何も新しいものではない。一種の必然的な帰結である。