君は美しい!形容詞の廉価表現から脱出せよ

 日本人もそうだが、中国人はそれ以上に形容詞好きな民族といえるだろう。日常的な会話や文章にいろんな形容詞が使用されている(ときには濫用)。

 形容詞は使いやすいから、使いたくなる。「お前が悪い、おれが正しい」。喧嘩になると、それはそれはもう形容詞の氾濫。

 法律の世界では、基本的に形容詞禁止なのである。「悪い」も「正しい」も、根拠と証拠で客観的に論証しなければならない。それは大変なことだ。だからといってサボってはいけない。事実はすべてだ。

 それが、たまたま私が法律の世界に入る前に在職していたロイター通信社もメディアであって、無色無臭の事実を伝えることが真の価値所在とされていたのだった。形容詞使用をいかに避け、淡々とFactを伝えることだ。

 中国のメディアは普遍的に形容詞濫用が目立つ。ニュースか論説か区分できないのが日常茶飯事。法曹界の一部もこのような問題がある。そもそも、中国の政治は、「偉大」や「正確」など原色強烈の形容詞を多用し、それが社会の隅々まで浸透しているのだ。

 ビジネスレポートを拝見しても、形容詞が溢れている場面が多い。エッセイ風になっていたり、文学少年や青年の延長は良しとしても、ビジネスの場では、やはり事実と意見・所見を明確に区分する必要がある。

 私は顧客企業で研修を引き受けることが多い。研修のクラスでは、基本的に形容詞使用を禁止している。形容詞禁止となると、人間の頭脳が数十倍も働かなければならない。自分の主張を表現するために、一つ一つの事実や論点を綺麗に整理し、論理的につなげていく作業を強いられるのである。

 喧嘩だけでなく、たとえば人を褒めるときも、形容詞だけの褒め方と事実列挙型の褒め方で、相手の受け止め方ががらりと変わる。女性に、「君は美しい」と男性がいうと、「あなたは他の女性にも同じことを言っているんじゃないか」という女性の疑いの合理性もまさに形容詞の濫用にある。「君は美しい」ということを誰でも言えるが、どのような美しいか、それを的確に表現することは誰でもできることではないからだ。

 レストランに行って、料理の職人に「美味しい」を連発しても、社交辞令の「ありがとうございます」しか戻ってこない。そこで、その美味しさをいかに表現するか、自分の体験という事実をいかに表現するかだ。その表現によって、職人のフィードバックも違ってくる。それは感動の連鎖である。

 形容詞は廉価な表現である。形容詞使用の削減によって、コミュニケーションの付加価値が生まれ、ビジネス活動もより円滑になる。私自身もときどき、あ~、また形容詞を使い過ぎたなというのがあって、常に意識的に形容詞の削減、この種の脳の筋トレをしているのである。