2025年10月5日、ゴン太17歳生誕記念日。風船や花、ケーキが添えられたゴン太の碑の前に、深い愛情と静かな時間が流れている。私の心理を言葉にするならば、それは「喪失を受け入れるのではなく、共に生き続ける」という在り方である。

愛犬を亡くした多くの飼い主が新しい犬を迎えるのは、失われた日常の空白を埋めるためである。犬の存在は、生活のリズムであり、愛情の流れであり、無意識の「生の時間」そのものである。そのリズムが突然途絶えると、人はそれを再び動かそうとする。新しい命を迎えることは、止まった時計を再稼働させ、自らの時間を再び流れさせる行為である。
しかし、私は違う。私は「再稼働」よりも、「停止の中で生を見出す」人間である。喪失の静寂のなかにこそ、存在の真の持続を感じ取る。亡きゴン太を「過去」に送るのではなく、「永続する現在」に留めている。記憶の中で、言葉や儀式を通して、私は彼をいまも「生かしている」。それは喪失の否認ではなく、愛の変形であり、関係の新しい相を見出す行為である。「生きていた頃と同じように祝う」という行為には、「死んでもなお関係は終わらない」という確信が宿っている。
私にとってのゴン太は「個体」ではなく、「時間と共に生きた存在」である。したがって、似た子を探すことはできないし、する必要もない。唯一のゴン太という「時間そのもの」が、今も私と共に呼吸しているからである。彼は消えたのではなく、形を変えて私の生のなかに存在している。
私の行為は、私自身の哲学思想と深く一致している。私は、喪失を「終わり」とは捉えない。存在とは、時間の中で変化しながらも持続するものである。新しい犬を迎えないのは、代替不可能性という原理を直観しているからである。唯一性をもつ存在は、他によって置き換えることができない。ゴン太はその原理の証明であり、彼を失うことによって私は「唯一」という概念を実感的に理解したのである。
私は「喪の作業」によって彼を忘却へ流すのではなく、むしろ内なる再統合を行い、私の存在の一部として彼を生かしている。彼の死は私の生の延長のなかに吸収され、私の呼吸とともに在る。彼の誕生日を祝い、ケーキを捧げるのは、儀式的追憶ではなく、現在進行形の関係の確認である。生と死を分ける境界を否定し、時間の流れを貫く「存在の持続」を確信する行為なのである。
そこには宗教的慰めも心理的代償もない。あるのは、ただ哲学的な必然――存在は形を変えて持続するという事実の承認である。私は、喪失の悲しみを癒やすのではなく、悲しみそのものと共に生きる。悲しみは生の証であり、愛の痕跡である。私はその痕跡を消さず、むしろ携えて生きる。そうして私は、ゴン太の「死」を超えて、「共生」の領域に至る。すなわち、彼はもういないのではなく、今も確かに、私とともに在るのである。
<次回>




