半世紀生きたこと、50歳誕生日を迎えて

 2014年10月20日、私は50歳の誕生日を無事迎えることができました。

 半世紀も生きました。大変長い歳月この地球上で何とか生き延びたこと、まずは神様に心から感謝したいと思います。昨年このマレーシア、イスラム教の地に移り住み、日々礼拝するムスリムの方々を目の当たりにしていつの間にか宗教や哲学の本を多く手に取り、勉強することになりました。そして、神の存在を感じはじめました。それはどういう神か正直自分もよくわかりません。

 宗教史や宗教文化の本を読んでいると、ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も、さらに仏教もそれぞれ違う神を拝んでいるにもかかわらず、ある共通の理念を共有していることが分かります。それは神の慈悲や愛のもとで、常に感謝の心を持ち、善を行うということです。

 私がもっとも神に感謝しなければならないことは、幸せを私に与えてくださったことです。「あなたは幸せですか」と聞かれるたびに、私は迷うことなく、「幸せです」と答えます。どのくらい幸せかと聞かれると、「死にたくはないが、いつ死んでも悔いはありません。私は十分に幸せに生きてきたからです」と胸を張って言います。

 幸せは物心の両面にあり、どれか一つだけあればそれは幸せだと思いますが、私は両方を戴くことができましたので、それは大きな、大きな幸せなのです。しかし、物心という二つの幸せには本質的な違いがあるように思います――。

 「物は使用権、心は所有権」

 物の充足や豊かさというのは、神様から貸していただいたもので、いつでも返せと言われたら返さなければなりません。返したくないとしがみついてもそれは神の力には勝てませんので、最終的に取り上げられてしまいます。ただ、心の豊かさは神から贈与されたものだと私は考えています。この心の豊かさは、心の自由を源泉にしているのです。神への感謝、正義への信仰を忘れない限り、そして勇気を捨てない限り、この源泉は枯渇することはないと思うのです。

 ガンジーはこう言います。「幸せとは、自分が考えていること、言っていること、そしてやっていることが調和しているときのことを言う」。つまりは、思想の自由、言論の自由、そして行動の勇気という三者の調和一致ということだと私は理解しています。

 考えていることを、そのまま言い、そしてそのまま行動を起こすということはそう簡単ではありません。現世の利益としがらみ、そして喪失の恐怖が常に付きまとい、葛藤や苦渋に満ちた心の暗黒世界と戦う人間は如何に孤独か。このような半世紀でもあったように思えました。とはいっても、私は神の力を借りてどうにか心の自由を失わずに今日に至りました。感謝の気持ちでいっぱいです。そして、半世紀、私を支えてくださったすべての方々に深く感謝申し上げます。本当にありがとうございました。

続き、誕生日の花の話

 

 

コメント: 半世紀生きたこと、50歳誕生日を迎えて

  1. 立花さん、お誕生日おめでとうございます。

    今後ともよろしくお願いいたします。

    (フェイスブックが最近繋がらないので、こちらにコメントさせていただきました)

  2. おめでとうございます。
    毎回楽しみに拝見させて頂いておりますので、これからも末永く。
    神奈川の54歳。

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