死を意識しての最短距離探し、形而上学の意味と哲学の勉強

 明日、クアラルンプール深夜発の便で成田へ向かう。日本出張の楽しみの一つは、アマゾンから本の大量購入である。アマゾンの海外発送もしてくれるのだが、高い。そこで日本出張中に宿泊ホテルのフロント気付で送ってもらっている。

 前回の日本出張は9冊だったが、今回は少なめの7冊。「イスラム思想史」、「イスラム哲学」、「イスラムの日常世界」、それから楽しみにしている「コーラン」の精読3冊、最後に中国関係1冊。さらに12月に日本の親戚が来馬するときも、本の大量購入と運搬を依頼することになっている。

 私の場合、大学時代は遊びに耽っていてほとんど読書らしい読書はしなかった。社会に出てからようやく本格的に読書を始めた。20代後半はビジネス成功者や大経営者たちのサクセスストーリー本、30代はビジネスの実務書ばかり読んでいた。40代に入るとアカデミックな固い本、戦史や哲学書が増え始め、最近マレーシアに住んでからは、イスラムを中心に宗教本を読むようになった。

 人間はいろんな失敗を重ねて体験を積み上げ、法則を見出していくのである。その体験や経験が凝縮されているのが歴史、さらに経験から抽出される法則が高度に凝縮されるのは哲学である。すべての学問の頂点に立つのは紛れもなく哲学である。「博士」といえば「Ph.D.」、その「Ph」は、「Philosophy」哲学であって、各学科の博士に共通して「哲学」が付くのがそのためだ。

 「形而上学」とは哲学の一部分であり、体験や経験を超越した世界を真実在とし、その世界の普遍的な原理について理性的な思惟によって認識しようとする学問である。中国の大学院に留学したとき、中国人学生と話をしていると、どうもこの「形而上学」に対しあまりいい意味で捉えていないように感じた。唯物論を中心とする中国の政治や教育現場では、「形而上学」は異端児的な存在だったことを知った。

 だが、「形而上学」そのものがビジネスや経営の領域にも大変役に立っているのである。原理や法則は何といっても、成功への最短距離を示してくれる基礎的なツール(思考回路的なインフラ)であるからだ。人間が年を取っていくと、死へのカウントダウンを意識し始め、そこで最短距離を慌てて探し出すのである。

 以前、ある教授に言われたことがある。「歴史や哲学本をかじりだしたら、それは年をとった証拠」。まさにその通りだ。