論理的な生き方って疲れませんか?少数派の道をゆく

 「立花さんのような論理的な生き方って、疲れませんか?」

 新年早々また聞かれてしまった。疲れるどころか、私はむしろその方がぶれないで楽なのだ。えっと思われるかもしれないが、それは本当だ。少し説明させてもらおう。

 人間は社会的動物で社会に生きている以上、いろんな人と付き合わなければ生きていけない。それはいわゆる人間の社会性でもあろう。ただ十人十色といって、人それぞれ異なる信条や価値観、生き方をもっている。そこで、なるべく多くの人と仲良く付き合っていくために、いろんな人のいろんな論理を理解する必要がある。たとえそれを理解できない、納得できないときでも、少しは無理して合せたりすることも必要だ。

 私は生れ付き「納得なき合わせ方」が非常に苦手だ。言ってみれば、演技が下手で人に合わせようとしたところ、顔に「不快だ」「無理して合わせているんだぞ」「本当は嫌いだ」と書いてあるようなもので、それがすぐばれてしまう。隠そうとしても角が出てしまうので、八方美人の人には到底太刀打ちできない。気がつくと世のなかやはり八方美人が断然多くて、これじゃ一生負け組だということが分かった。

 けれど、負けたくない。方法は二つしかない。一つ、多数派と闘うために丸くなってとことん演技上手になること。もうひとつ、冒険だが少数派を極めて勝負する。最終的に、会社の上司と喧嘩を重ね、酔っ払った勢いで会社を辞め、マイノリティーの道を歩み出したのだった。これは本当に楽な道だった。いろんな論理は存在しない。あるのは、自分の論理一つだけである。人に合わせることもしない。YESかNOをはっきりさせ、間違ったら、素直に「私は間違いました。納得して貴方に合わせます」という。

 商売というのは、基本的に多くの見込み客を囲みこむ必要があるが、私は逆行している。年商兆円単位の企業に向かっても、平気で「お宅とはもう解約だ」と切り出す。零細中の零細というのに、何偉そうにと。偉くないけど、これはこっちの論理だ。原理原則は絶対に曲げない。

 これじゃ会社が潰れるだろうと従業員がみんなひやひやするが、いやそれは不思議に会社はつぶれるどころか伸びてきたのだった。誠に不思議。

 あるお客様が飲んだあと、こうこぼす。「立花さんの毒舌は本当にきつい。ムッとすることもありますよ。でも、一点だけ、悪口をそのまま言ってくれる。嘘をつかないのが本当にありがたい。あと、言われたことをやってみると大抵あたっているので、助かってます。しばらくは毒舌に我慢しますよ。よろしくね」

 いやいや、それはありがたい。といっても、私の毒舌で逃がした商売もたくさんあった。「チャンスはすべてつかむものではない、チャンスを逃がすのも人生のうち」、私の信条の一つである。

 こうして、何時どこ行っても、どんな人に会っても同じことをしゃべればよい。あの人にああいう。この人にこういう。こういう疲れた演技は必要なし。本当に楽だ。立花節で笑いたいときは笑い、怒りたいときは怒り、しばしば毒舌でやり通すところはもだしも、人を逃げ場のないところまで追い詰めることもある。

 「社交性がない」「変わっている」「口が悪い」「和の破壊者」「非国民」・・・、このような称号をすべて勲章としてありがたく拝受する自分はもはや助からない、という自覚はしっかりもっている。

 というようなことで、今年もおそらく自己改造なき1年になろう。ブログやフェイスブックではいろいろ変わった話もさせてもらいますし、また度々の炎上も楽しみにしております。