「真善美」論、人間のいろんな力の使い方

 真善美――。

 単に並べて格好のいいものではない。相互矛盾が生じるときもある。いやむしろ矛盾が多いのかもしれない。真実だから善であるとは限らない。善きものは必ずしも美であるとも限らない。美ではなるが、真にならず幻想に過ぎないときもある。

 我々人間は日々その葛藤と戦っている。

 真善美のなか、「真」だけが客観的実在であり、「善」と「美」は主観的認識した後の問題である。たとえば、「悪」や「醜」と思われる「真」が存在したときに、その「真」を否定しようとする心理が生まれる。「こう(悪・醜)であるべきではない、ああ(善・美)であるべきだ」というのである。

 次に取られる行動が見所だ。悪・醜の「真」という現状を変える行動に出るかどうかだ。悪・醜の「真」を変えるための勇気(胆力)、変えるための知恵(知力)、そして最後までやり通す根性(持久力)という3つの力、ときには金も必要だろうから、できれば「財力」もほしい。

 人間には、見たくない悪・醜の「真」がたくさん存在する。その「真」に背を向けてそれを罵り(批判力)、「善」と「美」を讃える(歌唱力)が役に立つときもある。

 現実主義者の問題解決志向、理想主義者の問題回避傾向、正誤の判断よりも価値の置き方である。問題が解決できないとき、問題の回避それ自体が問題の解決法になるからだ。そういう意味では理想主義者の幸福度が現実主義者を上回ることもあるだろう。

 現実主義者は、どんな「醜悪」な「真」でもまず「真」として受け入れる。ただその時点で、この受け止め方自体が「醜悪」と認知されることもあろう。直ちに道徳のハンマーで叩き潰されることもあろう。決して穏やかではないこの「真」をまず認識し、サバイバルしなければならない。これこそが「善」であり、また「美」であると、少なくとも現実主義者の私はこう思う。

 このように相対論的に、「善」や「美」に対して人によって異なる主観的な認識がある。何も統一する必要はないだろうし、統一することもできないだろうし、いや、無理して統一しようとすると多くの争いに発展するだろうから、統一してはならないのである。

 胆力、知力、持久力、批判力、歌唱力、そして財力。人間はいろんな力を持っていたり、持っていなかったりする。これらのリソースの使い方を決めるのが人間自身だ。それぞれの信条や価値観、世界観に基づいて・・・。

コメント: 「真善美」論、人間のいろんな力の使い方

  1. 「醜き現実を受け入れる者」、「必要な悪を受け入れて戦う者」。まあ、なんのかんのと、詩的にご自分を美化するのが上手です。

    しかし、立花先生のおっしゃっている現実だけが本当の現実か?そもそも、立花先生は、現実と戦っていらっしゃると言えるのか?むしろ、現実に流されているだけでないのか?

    本来戦うべき現実、変えるべき現実との戦いを無理だと逃げて、わかりやすい、戦いやすい現実へ逃げているだけではないのか?

    ご自身でそんな疑問をお持ちになったことはないのでしょうか?

    1.  「自己美化」よりも自分の行動は、自分の価値観や美学で評価し、「善」と「美」のもとで行われるのも当然でしょう。それよりも、「現実と戦っている」と私は言ってますか?あなたが勝手に私を美化しておいて、「自己美化」を私に押しつけているのではないか。

       この手法は、「善」にも「美」にも見えませんが、「真」です。でも、その「真」と戦うつもりはまったくありません。戦うことに価値を見いだせないから、戦うことは「善」にも「美」にもならないからです。

       まったくおっしゃる通りです――。変えられない「真」、変える価値のない「真」からは逃げます。そういう「逃げ」は、私は疑問一つなく、「善」や「美」だと思っています。それこそ「自己美化」と言われても、喜んで受け入れます。それは相手と違う美学をもっているからです。

       最後に、自分の投稿に少々補足します。「真」に背を向けてそれを罵り(批判力)、あるいは、逃げる力(脚力)も必要。

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