夫婦別姓を認めない民法の規定は合憲だ。昨日の最高裁判決は極めて適正かつ合理的な判決である。
まず、私が注目したのは女性裁判官の判断であった。最高裁15人の裁判官の意見は分かれ、10人が合憲、3人の女性裁判官全員を含む5人が違憲とした。これは自分の立場があっての価値判断がまったくないとはいえないだろう。人間は誰もが自分を中心に思考回路が作られたものであるから、特に不思議とは思わない。
夫婦別姓を主張するグループも、夫婦同姓を主張するグループも、それぞれの利益所在があり価値判断がある。一方が正でもう一方が誤ということではない。ただ、国としてどちらの主張を採用するかは総合的な判断が必要だ。「夫婦が同じ名字を名乗るのは我が国の社会に定着していて合理性が認められる」という最高裁の判断はまさにその反映といえる。
つまり夫婦別姓によって一部の国民が手にする利益よりも、夫婦同姓にして全社会が得る利益のほうが大きい。そこで合理性の判断が下されたのであった。そこであえていうなら、一女性として反対だが、社会全体の観点からは賛成として、賛成票を投じる女性裁判官がいたら、私はものすごくその方を尊敬したい。残念ながら、それは現れなかった。
改姓によってアイデンティティが失われるという主張に対し、最高裁は「アイデンティティーの喪失感などの不利益は通称使用が広まることで一定程度、緩和される」と手続き的な方法論の提示にとどまっている(そうであるべき)が、ここで改姓によってアイデンティティが果たして失われるかという命題を考えてみたい。
これも様々な答えがあるだろう。まず、「アイデンティティ・クライシス(アイデンティティ喪失)」の解釈はこうなっている――。「自己同一性の喪失、『自分は何なのか』『自分にはこの社会で生きていく能力があるのか』という疑問にぶつかり、心理的な危機状況に陥ること」
その自己同一性を構成する外在的要素(たとえば名前)と内在的要素を比較すると、やはり後者がより重視されているように思える。改姓されたことがその自己同一性に決定的な影響を与えるかと言うと、感覚的な個人差もあるだろうが、少なくとも私は否定的である。